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自己肯定感の言葉のインフレで、自己皇帝感人間が増えている

自己肯定感という言葉がいつの間にかインフレを起こしている。そういう言葉をタイトルにした記事や書籍がたくさん出て、並行して「自己肯定感をあげるセミナー」などのようなものもたくさん出てきている。

まあ、それはいいのだが、懸念するのは「自己肯定感」という言葉の意味が勘違いされてきているということだ。

一番多いのが「自己肯定感」と「自己有能感」の混同である。自己有能感(自己有用感ともいう)とは、自分が有能・有用だと思える感情のことで、他者との関係で、自分の存在が誰かの役に立っている、貢献していると認識出来る時に起きる感情である。

一方、「自己肯定感」とは「自尊感情」ともいいますが、自分の存在の意義や意味を自分自身で信じられる感情のことです。

どこがどう違うのか?と思う人もいるかもしれないが、自己有能感とは基準が他者や社会という自分の外部にあるのに対して、自己肯定感とは基準は自分の内面にあるという点が大きく違う。

自己肯定感を自己有能感と混同している人は、あくまで他者の評価を気にする。他者から賞賛されたり、いいねをたくさんもらったり、偏差値だったり給料の額だったり、乗ってるクルマや来ている服、もっている時計の金額だったり…。そういうもので満足を得ているのは自己有能感が高い人であって、自己肯定しているとは限らない。

もちろん、自己有能感が高い人ほど自己肯定感が高いという相関はある。しかし、上記の意味の違いを把握しているならいいのだが、混同している人がはまりやすい危険な落とし穴がある。

それは「有能ではない自分は肯定できなくなる」ということだ。

試験の成績が悪かった、希望の会社に落ちた、給料が平均と比べて低い、フラれた…など何か失敗やしくじりをするたびに「ああ、自分は有能ではない」と感じると同時に「こんな無能な自分は嫌だ」と自己否定につながってしまう。

有能であることと自分を認めることとは別。もっといえば、他人の評価に自分の評価を影響されてどうするよという話である。逆にいえば、他人の評価に右往左往する人間というのは、自分自身を見失っている人でもあるのだ。

さて、そんな自分自身を見失っている自己肯定系人間も増えている。系をつけたのは、かつての「意識高い系」と一緒の部類だからだ。そういう人は「自己肯定感が高い人間は良い」という謎の刷り込みがされていて、自己肯定のなんたるかも知らずに「俺って自己肯定感高いからさ」と言っちゃったりしてる系です。自己肯定感は他人にアピールするものではない。

とはいえ、何も実績がない人がそうはならないので、そこそこ今までの人生の中でしそつなくこなしてきたタイプに多い。そこそこのいい大学に行って、そこそこの大企業に入って、そこそこの平均からしたら高い給料もらって…のような環境にある人。なので無能ではないのだろう。

しかし、この自己有能感と自己肯定感を混同してる人間がのちのち大いなる無能にもなりやすいし、無能なのにかつての一瞬有能だった自分の幻想から脱却できないので、無能ぶりがより迷惑な人になる。無能すぎるのに、自己肯定感が高い(本人は自分大好きだったりする)から余計に始末が悪くて、ちょっと説教でもされようものなら「お前、俺より無能なくせに偉そうに言うなよ。お前の方が間違ってる。間違っている奴は悪だ、悪魔だ、サタンだ。排除してやる」とエスカレートしがち。今の世の中、特にツイッターなんかにあふれている。

そういう人を私は「自己皇帝感人間」と呼ぶ。

若くして起業して成功した人とか、若くして会社の中で良い成績出した人とかがなりやすい。第一期チヤホヤ期で周りが褒めてくれるし、よいしょしてくるから勘違いするんだよね。誰もお前のことは皇帝だとは思っていないのに、自分でそう勘違いしてしまう。まさにダニング・クルーガー効果的なもの。

ダニング・クルーガー効果とは、心理現象である「認知バイアス」のひとつで、能力の低い人が「実際の評価と自己評価を正しく認識できずに、誤った認識で自身を過大評価してしまう」ことである。

まあ、自己の能力を冷静に客観視できる人もそれほどいないので、多かれ少なかれ誰しもこういう状態にはなるわけですが、「自分を過大評価する」だけではなく、それによって「自分自身が知識不足に陥る」羽目にもなる。要するに「謙虚に学べなくなる」わけです。俗に「馬鹿の山」といわれる状態。

駆け出しのころちょっと成功すると得意絶頂になってしまうが、実際そんなの錯覚でしかないことに多くの人は経験を積んで気付くのです。

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しかし、残念ながら錯覚の「馬鹿の山」からおりられない人もいる。やがてもそういう人は何やら「俺が世界を変えるんだ」とか言い出し始めるパターンが多いので、そういうことを言い出している人を見かけたら「ああ、自己皇帝系なんだな」「馬鹿のお山の大将なんだな」と思えばいい。

お前ごときで世界は変わらない。世界は人間の意志ごときで変わらない。古今東西、どんな為政者も偉人も自分の意志で世界を変えた者などいない。意志や理念はあったかもしれないが、それを形にしたものは行動であり、本人だけではない周囲の協力であり、その行動や協力に結び付く社会の環境だったりする。そのどれかひとつでも欠けていたら結果とは結び付かない。

成功した人間には意志があったというかもしれないが、それは結果論で、成功しなかった多くの人間にも意志はあった。むしろ意志など持っていなかったり、後世伝えられているものとは全く別の意志だったのにかかわらず、結果として後々社会を変えてしまった人の方が歴史的には多い。意志は結果の後付けの理屈に過ぎない。宗教改革のルターとか浄土真宗の親鸞とか、釈迦とかキリストもその部類だろう。聖徳太子にいたっては、実在しない架空人物に意志と実績を後付けで付与されたようなものだったりする(厩戸皇子と聖徳太子は別物)。

話が横道にそれたが、自己皇帝系人間は、自分の事もきちんと把握できないくらいだから、他者のことも評価できなくなるし、そういう人は何か問題や困難に直面した際にも正しい判断ができなくなる。そして、そういう人ほど詐欺に騙されやすくなるのである。秦の始皇帝が不老不死を願って毒(水銀)を飲み続けて早死にしたのもそういうような話。

皇帝化していないか?

そういうふうに自己を客観視して、まずきちんの自分をそのまま見つめることこそが自己肯定であり、「俺ってすげえ」と思うこととは全く違うのである。

自己肯定とは自分を肯定することではない。自分の位置をちゃんと把握したうえで、自分で自分に寄り添えることである。肯定も否定もしない。ただただ寄り添うこと。

あと「周囲に左右されない」とかを変に勘違いもしない方がいい。これは「周囲の動向に無頓着だったり、周囲の意見も聞かず、わがままにする」ということではない。むしろ自分を認識するということは前提として周囲の認識、つまり環境の正確な把握が必要になるからだ。空気を読めないのは生存力がないことを意味する。空気を読んだ上で、どう行動するかはまた別だが、少なくとも空気も読めない人間が環境に応じた適切な行動をとれるはずはない。


「どうしたら周りに左右されず、自分を大事にする生き方ができますか」という質問に対する回答が以下。こういう考え方もひとつの参考になるだろう。


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