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どこの国の誰の言葉も「深い」

今月はじめ、NHKスペシャルの「新ジャポニズム 第1集MANGA わたしを解き放つ物語」をみて思ったことがあります。番組は漫画とアニメのファンが海外で増えている、との現象を紹介したものです。

ぼく自身、この領域を追っておらず、20代前半の息子も小さい頃から漫画やアニメに全然興味がないタイプなので情報の仕入れ先が少ないです。

ただ、ひとつ、ある国の方が発した言葉がひっかかりました。言葉はそのままではないですが、下記の趣旨です。

日本の漫画は深いことを描いている。

もちろん、深いことを言っている台詞があるのでしょう。あるいは、読者がそう思ったのなら、それを否定する理由は何もありません。しかし、ぼくが思ったのは、どこの国の誰の言葉も深い、という事実です。

これまで先進国の多数の文化人類学者たちがリサーチのために未開地に入り込み知ったのは、文明の利器を使わずに自然と共に生きる人たちの知恵や世界の見方の新鮮さや意外性、その深さではなかったのではないか?

それだけではありません。

例えば、日本のメディアでイタリアの職人たちの働きぶりと人生観を「謳いあげる」のを散々とみてきました。一部、ぼくも加担したことがあるから反省を込めて書いているのですが、実際、彼らはそんなに大したことを話しているのではないー普通の人が喋るのと似たり寄ったりの内容です。

しかし、そのイタリアの職人の言葉の数々を日本の人たちは「ずいぶんと深いことを言うんだね」と評してきたのです。裏には、そんな深いことを語る人には見えないけど深いことを言っている、との驚きが潜んでいます異なる文化にある言葉はよく分からないから、逆に心に響きやすい面もあります。または、執筆者や編集者が、そう思われるように紹介してきたのです。

沢山の本が並ぶ書棚の前で語る学者の言葉には意外感があるはずがないのです。そのくらい言って当然でしょう!と思いながら聞きますから。

ところで先週と今週、ミラノのトリエンナーレ美術館で上映中の映画を観ました。12人のアーティや監督の作品が、短いもので7分、長いもので15時間! 2回出向いてまだ見切れていませんが、過去や現代を多角的にみる視点を提供してくれます。

旧ソ連時代の宇宙開発、数学者たちの言葉、朝鮮半島の38度線、共産主義時代ルーマニアのチャウシェスク大統領、未開地の人たちの宗教的や行為や自然観、CGで描かれた孤独な男性が社会に対して暴力的になっていくさまーーこれらの映像のなかで語られる言葉を聞いたり字幕で読んでいて「あっ!」と思ったのです。

CGで描かれた暴力的な人間が「良い友達も悪い友達もない、そばに一緒にいたいと思うかどうかだ」と語りながら1人ボートで自死を試みる姿は、哲学者のまったく同じ言葉よりもインパクトがあるーー予期しない場面での至極真っ当な言葉が歴史の素になってきた、と考えざるを得ない経験でした。

未開地の人たちの言葉についても「畏れ」、神や自然を配慮する言葉には驕りがないようにみえます。そこが呪術的な非合理な文化を生む要因であったとしても、現代の文明に生きる人間にとっては暗部を衝かれたような気になるから、言葉を深いと受け止めやすいこともあるでしょう。

一方、考慮すべきことがあります。

現在、「表層化」という流れが世界のどこにもあります。なにごとも表層的、または表面的な情報と理解が幅をきかせています。難しいこと複雑なことも易しく短く解説した方が歓迎されます。簡略化した方が読者や視聴者に届くだろうという判断が横行することになります。

だからこそ、それらの字面の一部に過剰に反応したり、冒頭のように誤解や意外性も含めて「深さ」(と思われる)に箇所にスポットがあたることもあると想像します。

「深さ」と「浅さ」について総合的に論じる時期にきた感があります。

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冒頭の写真はミラノのトリエンナーレ美術館の内部。


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