見出し画像

「あの時の言葉」に経験を積み重ねることで「私の言葉」になる

1月5日付け日経新聞電子版で女優・北川景子さんへのインタビュー記事を読みながら「そうだよなあ」と思ったことがあります。

まず、1995年、阪神淡路大震災で当時小学生だったご自身と家族は無事だったのですが、多くの人が亡くなったことに対して、次のように彼女は思います。

「なぜ自分がこんな目に遭うのか、亡くなった人はどうして亡くならないといけなかったのか」と不条理さへの疑問がつきまとう。

そうした絶望感が少なくなっていくのが、キリスト教系の大阪女学院での中学生活です。

きっかけは言葉の力だった。今でも忘れられないのが、入学式後に教師から教えてもらった「置かれた場所で咲きなさい」という語句だ。

ずっと「なぜ自分が」と狭い世界の中で思考を巡らせていたが、それぞれの環境で頑張ればいいと「腑(ふ)に落ちたというか、救い、気づき、導きになった」。他にも「神は乗り越えられる試練しか与えない」「人にしてもらいたいことをしてあげなさい」など、たくさんの言葉が思春期の心を支える。

ぼくが興味を持ったのは、これらの言葉が常に彼女を同じ力で支え続けたのではない、という点です。「私を変えた一冊」とか「私を支えた言葉」という美談的表現がありますが、それはかなり長期的な時間を後になって振り返った結果です。

北川さんの場合は、次のような展開です。

高校では関西の有力国立大学への合格を目指して猛勉強を始めた。ところが2年生になると雲行きが怪しくなる。模試の合格判定がA判定からB判定に下がることが増え、焦りが生じた。そんな時、自宅近くの駅で「モデルか俳優を目指さないか?」と声をかけられた。「怪しい」とその場から逃げたが、名刺だけ渡される。母が実在する芸能事務所のスカウトであると確認してくれたが、眼中になかった。やはり志望校へ行くことが自分の人生だ。

だが成績は一向に上がらない。完璧主義の性格だけに不安ばかりが募り、聖書の教えも吹き飛んでしまった。さまよえる女子高生の脳裏にふと芸能事務所からの誘いが思い浮かんだ。「レッスンだけでもいいと話していたし、部活感覚でやれば成績も上がるかも」

自分で望んでいたわけでもないと、新しい道を提示されても、その可能性が可能性として見えない。その一方、自分が歩んでいる道に不安が生じると、自分を支えると思っていた言葉は遠くに追いやられるーー。

北川さんは自分の迷い自体に自分の問題が潜んでいると考えるようになったようです。その時に、中学時代に影響を受けた言葉が復活してきます。

エンジニアの父はしつけや礼儀に厳しかった。勇気を奮って「私は変わらなければいけない」と宣言すると「別に志望校に入らないと死ぬわけじゃないし、好きなことをやればいい」と逆に背中を押してくれた。そうだ。自分をちゃんと肯定しないといけない。再び数々の聖書の言葉が甦(よみがえ)ってきた

自分の進むべき道が見えてくると、かつての指針がより強くなって存在感を示します。そして、うまく回転していくと、あの指針に自信をもっていくのですね。

おっかなびっくりで始めたモデルと俳優の勉強だったが、受験と違い、いきなり「A判定」が出る。ファッション誌のグランプリに選ばれ、人気アニメの実写版「美少女戦士セーラームーン」の出演も決まったのだ。撮影中に「挨拶の声が小さい」「この大根!」などと厳しい指導を受けながらも何とかやり遂げ、人見知りの性格も薄れていく。

しかしながら、一本調子で大進撃することもなく、やはりブレーキがかかっていく。そうすると、また、聖書の言葉を忘れたとしか思えない言動に移っていくのですね。

人気作品に出演し、華々しいデビューを飾り「これは天職かも」と悦に入る。ところが現実は甘くはなかった。条件が合わずにオーディションで落ち続け、仕事がない。度重なる落選に「見る目がないんじゃない」と人のせいにしたことも。大学では周囲に「次回作は?」と聞かれるが、「今は学業優先で」などとごまかす始末。

「今は学業優先で」というコメントが自分から逃げるために使われているのです。誰でも心当たりある弁解ですよね、「今は本業優先で」とか。次の展開にチャレンジしなくてもすむ理由ってたくさん欲しいのです。次の展開の機会にも消極的に立ち向かいます。

そんな時に森田芳光監督の映画「間宮兄弟」のオーディションを勧められる。当時は気力も萎え「大学の体育の単位が落ちるから行かない」と駄々をこねたが、プロデューサーの要請で渋々受けた。映画に登場する姉妹の姉役の台本を渡されたが、スタッフから「妹役も読んでみて。演技ではなくて友人に携帯で話す感じで」と言われる。

「演技しに来てんだよ……」と心の中で悪態をつきながら、スタッフの言うがままにセリフを読んでいく。オーディションが終わると「この作品に合格したら頑張ってくれる?」と声をかけられた。すると溜(た)まっていた不満が爆発した。「今回ダメなら体育の単位を落として留年するだけなんですよ。そりゃ頑張りますけど、受かったらの話なんで! 失礼します」

もう会うこともないと思い、本音をぶちまけたが、なんと合格。クランクイン後、オーディションで注文を付けたスタッフが森田監督本人だと知る。この作品が俳優を続ける覚悟を決めさせた。演技を本人に任せる森田流は「存在そのものを肯定してくれた気がした」。森田監督は14年前に他界。クランクアップ後、「女優をやめないでね」と励ましてくれたことを思い出すと、今もこみあげるものがある。

ただ、見る目をもっていた監督がいた。そしてまた上昇気流にのりはじめると、中学時代に支えてくれた言葉の価値を再認識することになるのです。それでも、やはり人は不安から完全に脱することができず、北川さんも例外ではなかったというのが以下です。

その後、俳優の仕事は増えたが、20代はルックスを重視する起用に悩んだ。「芝居で求められてるわけじゃない」。自分より美人なんてたくさんいるし、容姿だけでは限界がある。阪神大震災の時にアーティストが神戸の人々を勇気づけてくれたように、自分も表現者として社会に貢献したいのに……。

この場合はルックスが注目されることが障害になっています。いろいろなケースが当てはまりますね。「ルックス」にかわって「若さ」「技術」あるいは「性格」もあるかもしれません。北川さんの場合は「ルックス」に伴う近寄りがたさというバリアを脱したところに突破口がありました。

そんな状況に変化が生まれる。2016年、歌手のDAIGOさんと結婚した頃から「近寄りがたいクールビューティー」というイメージに「親しみやすさ」が加わった。結婚した年に主役を演じた「家売るオンナ」が大ヒット。喜怒哀楽を見せない鉄仮面のような演技が表現者として高い評価を受けたのだ。23年の大河ドラマ「どうする家康」ではお市の方と娘の茶々の親子をひとりで演じ、狂気と愛情あふれる演技が評価され、橋田寿賀子賞を受賞した。

「芝居が認められていないことに思い悩んだあの時の自分に言ってあげたい。頑張れば、いずれ芝居も認めてもらえるようになるから」。一つ一つやる姿勢と負けず嫌いの性格が実を結んだ。神戸で生まれた花はいま、俳優という場所で大輪を咲かせている。

中学時代に聞いた「あの言葉」は長い期間にわたって通奏低音として作用することで、その間に得る数々の経験を解釈するための指標になっていたことになります。

中学の時の言葉を忘れたり、思い出したりする過程で、その言葉が肉付けされていく。

だから後になって、その肉付けされた多角的な観点から「あの言葉」の重みを実感することになります。そして今、北川さんの言葉は「あの言葉」ではなく、自分自身の「私の言葉」なのですね。1986年生まれにして獲得した自分の言葉であることに意味があるなあ、と思います。

ーーーーーーーーーー

冒頭の写真はトリエンナーレ美術館で開催中のガエ・アウレンティ回顧展です。


いいなと思ったら応援しよう!