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「ユニコーン」という価値の測り方は適切なのだろうか

上場が危ぶまれたUberやWeといった「ユニコーン」たちだが、Weは頓挫し、Uberの上場は実現したもののその後大きな株価低下に見舞われている。バブル崩壊とまではいかないにせよ、かつての手放しでの「ユニコーン」賞賛はなりをひそめ、むしろ「ユニコーン」が生み出される構造に対して、疑問が提示された1年となった。それを象徴する記事が日経にも掲載されている。

金融機関が稼げなくなり、一方資金のもって行き先が見当たらない中で、スタートアップにカネが集まる、という構図はここしばらく続いてきた。

もちろん、スタートアップにとって、カネは必要だ。まだビジネスと呼べるほどの売り上げがないなかで、社会課題の解決を目指してオフィスを借り、人を雇い、プロダクトを生み出す。そのための資金調達がしやすくなっていることは、大いに歓迎したい状況ではある。

一方で、必要以上の金を、必要以上と思われるリターンへの期待から投資するということになると、記事にあるような事態につながりやすくなる。本来であれば、どのスタートアップも社会課題の解決を目指していたはずなのに、社会課題の解決ではなくお金のために動くということになってしまう。本来は社会課題解決のために、必要なお金を手に入れるものだった資金調達が、お金を増やしたい人のために資金を受け入れて、創業株主も大儲けが第一の目的となると、本来的な存在価値を見失ってしまうのではないか。

もちろん、投資家はお金を増やそうとして投資をするわけだし、金融機関も自分たちの取り分を増やそうとする。それ自体は責められない。

ただ、お金の使い道が、お金を増やすため、になってしまうと、おかしくなる。お金を増やすことが度を越してエスカレートすることは、健全とはいいがたい。それでなくても世界中で格差の問題が言われているなかで、こうした天井知らずなカネ稼ぎに走ることに社会的正当性・妥当性を見出せるのだろうか。

難しいのは、その正当性・妥当性の線引きをどうするか、ということだ。経済の理論による帰結からそれを求めることはおそらく不可能であり、結局は倫理観とか宗教観といったところに行きつくのかもしれないが、その効果はどうかというと、あまり期待できなさそうに感じる。

宿命的に、お金を使ってお金儲けをすること自体がビジネスモデルとなっている金融の世界でも、ESG投資などの試みで、お金がお金を産むだけではない投資のあり方を模索しているように思う。もちろん、それも一定の成果を収めたとたんに、またバブルへの道を走ることになるであろうことは、歴史的に見ても予め予想された未来ではあるのだが、現状の社会課題に呼応してこうした取り組み自体が出ていることには素直に評価をしたい。

そろそろ1年前に、こんなエントリーを書いた。

スタートアップの多くは、社会課題の解決を目指して生み出された組織である。せめてスタートアップは、こうした社外の動きに過度に適応せず、理念や目標を見失わずに必要な資金を調達し、エクジットを実現して欲しいと思う。

そして、「ユニコーン企業を〇社生み出す」といった目標を立てているところも散見される、特に行政など公的なポジションにあるスタートアップ支援を手掛ける機関には、こんな状況であるから、あらためてその目標の意味合いを考え直して頂ければと思う。目標とされるべきは、株主の懐に入るお金に換算された間接的な企業価値ではなく、そのスタートアップが社会課題を解決することで便益を受ける人たちの価値の総和としての企業価値のはずだからだ。

まだそうした指標はないかもしれないが、あるべきスタートアップの成長を測るためには、「ユニコーン」に代わる新たなスタートアップの企業価値の指標を考えるべき時に来ているのだろう。

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