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「恥をかきたくない」という人間ほど、恥を知らない

何一つアウトプットも出さないくせに、人の作った物に文句言ったり、未熟だと嘲笑う人というのがいます。ネットにもたくさんいます。

人を批評して自分は一段高い所にいるつもりかもしれないが、所詮そんな人間は、何も考えていない、何も行動していないし、何か行動して失敗したくない、恥をかきたくないだけの小賢しい意気地なしに過ぎません。

そしてもそういう「恥をかきたくない」という人間ほど、「恥を知らない」し、「恥をかくことの価値を知らない」のです。


「たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。なぜだかわかるか。こうして恥を忍ぶからだ。己が満足できねぇもんでも、歯ぁ喰いしばって世間の目に晒す。つべこべ悔いる暇があったら、次の仕事にとっとと掛かりやがれ」

NHKドラマ「眩(くらら)」の中での葛飾北斎の台詞です。全ての仕事、いや人生全般に通じる金言だと思います。

「仕事とは成功させるもの」という間違った価値観を持っている人が多すぎると思います。成功か失敗なんてものは、自分が決めるものではなく、結果論として客観的な誰がが判断してくれるものです。

「これは失敗するんじゃないか…」なんてことばかり心配して、何もアウトプットしなければ、確かに失敗はゼロになるでしょう。でも、それは仕事をしたことになりません。

「失敗したらお前責任取れるのか?」みたいな形で圧力をかけてくる輩もいます。「失敗しないことこそが成功」と考えているのでしょう。だから、そういう人間は必ず失敗を隠ぺいします。なかったことにしようとする。今日発売されて文春を読めば、いかに財務省の官僚たちが腐っていたかがわかります。


失敗も含めて明らかにする。それこそが「恥を知る」ということです。「考えない・動かない・明らかにしない」そうした行為は恥を知らない者が行うことです。

そして、失敗がゼロであることなど誇れるものではなく、そもそもどれだけ打席に立ったかが大事なのであり、打率の高さなんて意味はないんです。あまつさえ、打席に立つこともなく、打席に立っては三振を繰り返す人間を嘲笑する人間がいます。「あんなスイングではヒットは打てない」などと評論し、自分自身は頑なに打席に立とうとしない人間がいます。

どちらの人生が豊かなものになるでしょう?

論じてるだけの虚人より日々何かを作り出し、失敗も含め、成し遂げてる者こそ尊い。このドラマから、改めてそんなことを教えてもらいました。


とにかく、長塚京三演じる老人の北斎感が凄まじい。イメージしている北斎そのものと言っていい。

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NHK「眩(くらら)」より


ご存じの通り、葛飾北斎とは江戸を代表する浮世絵師の一人で、「冨嶽三十六景」などが有名です。

劇中、北斎の絶筆といわれた『富士越龍図』を描きあげるシーンがあるのですが、それを仕上げて、宮崎あおい演じる娘の応為は、その絵を目の当たりにしてとめどなく涙があふれ出ます。それくらい人の心を揺さぶる絵を仕上げたわけです。

これがその絵です。素人ですが震えます。

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しかし、北斎は描ききあげた後すぐにこう嘆きます。

「あ~、もっと上手くなりてぇ~」と。

今でいえば、超売れっ子漫画家や芸術家の領域に達していたはずの北斎が、死の間際まで「もっと上手くなりたい」という恥を自覚していたということなんです。そこが凄いし素晴らしい。


永遠の未完成…生きるとはそういうことではないですか?

恥をかかないことが人生なのではなく、恥を晒し、自覚し、次をもっとと思い続けることこそが「生きる」ということ。


ドラマの中でもちょっと描かれていますが、「南総里見八犬伝」で有名な滝沢馬琴と北斎とは若い頃からの悪友であり、仕事のパートナーです。

こんなエピソードが残っています。

北斎は、馬琴の「椿説弓張月」「新編水滸画伝」などの挿絵を描いていました。しかし、へそ曲がりで天邪鬼な北斎は馬琴の指示を守らないことが多かった。

馬琴が指定した人物の配置を左右逆にしたり、勝手に狐のキャラを加えるなどして、しばしば馬琴と大喧嘩になりました。

が、ふと、馬琴がひらめいた。

「もしかして、自分が描いてほしい指示と逆の指示をしたら希望通りの絵になるのでは?」

馬琴の思惑は大当たり。北斎はまんまと馬琴の術中にはまり、指示と逆の絵を描いたという逸話があります。

「へそ曲がりも徹底すると逆に素直である」と、馬琴は知人にそのことを手紙で知らせています。

今でいえば、原作者と漫画家との諍いのようなものですが、北斎からしてみれば、単に馬琴の指示の反対をしていたのではなく、自分の信じるものを描き続けただけなのでしょう。馬琴がそれを理解するようになっただけなのに、そう言うと馬琴的には癪なもんだから、こんなエピソードにして「北斎は変わり者」とイメージを作り上げたのかもしれません。


「冨嶽三十六景」で北斎が描いた波は、ハイスピードカメラでとらえた波と酷似。どんだけすごい眼力だったのか、はたまた、想像力がハンパなく高かったのか、それにしてもすごい人です。

もっとも、北斎にしてみれば、この波の表現ですら、「未完成」だったのかもしれません。

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こちらの記事より引用


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