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お世話になっております。メタバースクリエイターズ若宮でございます。

今日は「偏愛」について書きます。

偏愛はエネルギーを生み、ロジックを超える

皆さんは偏愛するものってありますか?

例えば僕だとTwitterのプロフィールにも載せている通り、葛藤フェチだったり、うにとか手が好きとかが偏愛かなと思います。

「偏愛」はアート思考的にも重要なキーワードです。

大学院での授業や企業でアート思考のワークショップをする際、プログラムの中で「偏愛自己紹介」や偏愛を掘り出すインタビューをしたりします。

そして毎回、本当にいろいろな偏愛があるんだなと驚かされます。例えば、「胸鎖乳突筋がたまらない」という人もいれば、「ニキビを潰すのが大好きでニキビがある人がいると潰させてとお願いする」なんて人もいます。

最近市民権を得てきている「推し活」も一種の偏愛と言えるでしょうか。偏愛にはニッチなものや度を超えているものが多くて非常に興味深いですw。


アート思考において、「偏愛」に注目するのには二つ理由があります。

一つは、偏愛が持つエネルギーです。イノベーションを生み出したり、社会の価値観を変えるような活動は、すぐには社会から理解されません。起業家ならよく経験するように、特に0→1フェーズでは9割アゲインストの強風にさらされているような感じなのです。それでもくじけることなく進んでいく、偏愛はその強力なエネルギー源になります。

もう一つは、ロジックを超えるということ。偏愛は、理屈で説明できないことが多いものです。偏愛をインタビューするワークでは「それはなぜ?」とインタビュアーが深堀りしていくのですが、究極的には本人にも理由がわからなかったり、説明できなかったりします。

近代以降の知性では、ロジックや言語化の能力が求められ、企業や組織でも理屈が重視されがちです。しかし偏愛の理由を説明できないように、言語を超えたことは実際にはたくさんあります

そして、ロジックで説明できないからといって、非科学的だとか劣った考えだということではありません。

言語化出来ない「感性」は、ダニエル・カーネマンの言葉を借りれば「速い思考システム」だと言えます。論理的ではありませんが、たしかに思考であり、「偏愛」はこちらの思考システムに属していると言えるかもしれません。

偏愛や感性的な直感も大切にすることは、理屈を超えた価値判断ができる訓練でもあります。特に日本の組織では、「遅い思考」でロジカルに考えすぎるがために、どんどんやらない理由を増やし、「石橋を叩きすぎて橋自体を壊してしまう」みたいなことが起こります。

「偏愛」はこれを超え、新たなブレイクスルーを生む可能性があるでしょう。


偏愛は理解されにくい

僕はうにが大好きです。(経営する会社の社名「uni'que」にも、「うに食う」から来ているくらいですw)なぜそんなにうにが好きなの?と聞かれてもよくわかりません。東北の港町で育ったからとか後付けの理屈はつけられるかもしれませんが、同じ町で生まれ育ってもうにが嫌いな人もいます。

色白とか手に異常に惹かれるのですが、その理由も上手く説明できませんし、アートが好きなのはもそれがむしろ説明ができないものだからかもしれません。


偏愛や性癖については、ほとんど人から理解されない、というところもあります。

ロジカル思考は説明可能であり、「共通理解」(分かる)が可能です。デザイン思考は感性の領域ではありますが、「共感」(わかりみが深い)ができるかもしれません。両者に「共」という字が入っているように、周囲の人からみて「わかる」ものなのです。

一方アート思考やアートは「わからない」のゾーンです。


先日、Voicyパーソナリティの碓氷早矢手さんと対談した歳に、浅井リョウさんの小説『正欲』を勧められて今読んでいます。忙しくてまだ読み終えられていないのですが、ここに描かれている問いはアート思考に通じるところがあると感じます。

この本では登場人物たちがそれぞれの偏愛を抱えて生きているのですが、その偏愛は一般的ではなく、誰からも理解されない、という生きづらさを抱えていたりします。

「偏愛」は「偏」っているために「マイノリティ」なことも多いのです。「話しても理解してもらえないだろう」とか「気持ち悪いと言われるんじゃないか」と普段は偏愛を隠している人も多いかもしれません。


アート思考では、だからこそ意図的に、最初に偏愛をさらけ出すことをします。偏愛で自己紹介をすると、「普通は」というような一般的な価値観の制約を壊すことができるからです。

一方、「普通」の自己紹介では、だいたい肩書きや職業から話し始めます。〇〇企業に勤めています、とか「△△の部長です」とかいうのは、実はその人らしさとはあまり関係がありません。

肩書や一般名詞で自分を捉えることを、僕の用語では「自分」ではなく「他分」と呼んでいます。それは畢竟、他の人が決めた分節でしかなく、本来の自分とはあまり関係ないのです。


「偏愛」はこうした「いびつな自分らしさ」の発現でもあります。その「偏り」の分、一般には理解されにくいために、『正欲』の登場人物のように、隠したり抑圧していることも多いのです。


偏愛による排他・攻撃には気をつけよう

「偏愛」の力はポジティブに使えば、無尽蔵のエネルギー源になったり、論理や既存の価値観を超える力や芸術的創造の源泉にもなりえます。

一方で、偏愛が悪い方向に発動してしまうこともあるので注意が必要です。

例えば、変わった性癖があるとしてもそれ自体が「悪い」わけではありません。「偏愛」自体は原理的には善悪の彼岸にあり、ひょっとすると社会的に眉をひそめられるようなものだったり、倫理的にもグレーなものだとしても、それ自体をよくないと責めることはできません。「表現の自由」というのはそういう意味では偏愛の自由を担保するものでもあります。


ただし、その偏愛を人に押し付けたりしてはいけません。ましてや他人を傷つける権利はありません。これをきちんと切り分ける注意が重要だと思います。ドラマ『あなたの番です』には「人を殺すことを愛してる」というセリフが出てきます。それが偏愛としてはニキビを潰すことと同じような感情だとしても、実際に人を殺してしまえば法に裁かれます。


もう一つ「偏愛」で注意が必要なのは、時に原理主義になりやすい傾向があることです。例えば、アイドルのファンがSNSで他人を攻撃したり、少し前だとワクチンに対する議論や陰謀論などでもそうした傾向がみられました。

「偏愛」は行き過ぎると、偏った一方の見方に囚われ、狂信的になる危険があるのです。偏愛がダークサイドに転じると、「偏見」や「偏屈」、「偏執狂」的に特定の考えに囚われ、カルト的な宗教のように、周囲の意見を全く聞かなくなってしまいかねません。


「偏愛」の「解放」

最初に述べたように、偏愛はエネルギーの源泉であり、ロジックを超える契機としてポジティブな側面があります。

一方で、偏愛にはネガティブな側面やリスクもあります。偏愛が昂じて妄信的になり、周りが見えなくなり、他人を傷つけたり攻撃したりしてはいけません。偏愛はロジックを超えている分理屈が通じなくなり、自分たちだけの世界に閉じこもって、他者を排除してしまいます

「偏愛」があるのに、それに蓋をしたままで仕事したり生きるのはもったいないところがあります。せっかくのエネルギーが生かされず、あるいは生きづらさを抱えてしまうこともあります。

だから偏愛を解放することは良いことだと僕は思います。それによりより自分らしさを発揮し、いきいきと生きることができます。推し活は日々の生活に張り合いを与え、幸福感を増してくれるでしょう。

しかしその偏愛が排他的なものになったり攻撃的になってしまったら(「同担拒否」や「お気持ち表明」みたいな)少し注意が必要です。そうして他者を拒否し排斥し、どんどん閉塞的になっていってしまうのです。

偏愛を表す用語に「沼」という言葉があります。沼の深みにハマってもそれを楽しめるならよいのですが、窒息してしまってはいけません。


「偏愛」を殺さず、生かすことで仕事や人生が楽しいものになります。もしあなたがせっかく偏愛を持っているのなら、それを閉じる方向ではなく、広がる方向にできたらいいですよね。


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