「経営者、政治介入で受難の時代」というタイトルの英「エコノミスト」の翻訳記事を読み、世界各国の政府と企業は抜き差しならない微妙な境界に足を踏み入れたのだなあ、とつくづく思いました。現状を見据えるに役にたつ刺激的な記事です。一部を抜粋しながら、メモを残していきます。
(因みに、我田引水で恐縮なのですが、長期的な視点に依拠した文化創造モデルとしての「新・ラグジュアリー」が、実は、この記事と相性が良いとも思いました)
冒頭の文章にその苦悩ぶりがドンという勢いで記されています。
国内では数々の制約に縛られる一方、国外はその制約の数々が無秩序に立ちはだかっているがゆえに、どちらを向いてもリスキーである、というわけです。だから、「無傷の多国籍企業は皆無に近い」のです。
グローバル化賛歌という時代があった・・・というニュアンスがありますね。利益の配分は不均等であろうと、およそのところ、利益をあまり享受できない人たちも恩恵を受けられるシステムであったことが、このシステムを維持してきた背景である、と読めます。しかし、このシステムは機能しなくなったのです。各国政府は統制を強化せざるを得ない理由があったのだ、と。
次は、その新しい方向が顕在化してきた例です。経営者はポピュリズムに嫌悪感を示す方法、自社の美徳を示す方法を見いだし、そこにESG投資がうまくはまったと示唆しています。
このエコノミストの記事では、この方向の行き過ぎを指摘しています。いわば、中庸が中庸になりえていない、ということでしょうか。
以上の例を読むと、一部のCEOの判断ミスとも受けとめられやすいですが、もっと政府の大きな網のなかに企業は絡めとられていると記事は言及します。グローバル化賛歌ではなく、国内転換に向かうことで、国家安全保障と気候変動という2つの大問題の解決を図ろうとしている、ということです。しかし、そう容易くはない。
その難解さの実態と構造を示しているのが、次の段落です。政府が懸命に規制を強めれば強めるほどに、その実行の現実性が低下します。かといって、それを企業のCEOが批判するのも、ままならない。「ウオーク(社会正義に目覚めた企業や人々)」批判については、ここを見てください。
注意を要するもう一つの現象にも、この記事は触れています。愛国心と国内戦略の関係です。新興国の十八番であったのが、欧州や米国でも愛国心を「利用」していると言うのです。
グローバル化は地域を無意味にさせるものでしたが、以下の部分は、現在、地域を「うまく使い分ける」知恵が必要であると語っているように思えます。
しかしながら、小手先の戦略ではサバイバルできません。「頭隠して尻隠さず」の企業の数は枚挙にいとまがないでしょう。そのような姿は信用を低下させるだけです。
このような実に微妙な状況と選択肢のなかで、記事は「長期的な株主価値を指針にすべき」と書いています。
社会的な発言や指針が短期的な利益を狙うと、「足元をみられる」というか「本音が透けて見える」と言われ、「グリーンウォッシュ」との批判をうけたりするわけです。本記事で延々と問題点を指摘してきて、「短期的から長期的」という点にあるべき姿を集約させたのは、それだけ「短期的」な見方が蔓延しており、それが諸悪の根源になっているということでしょう。
この記事は、「サステナビリティ」「ビジネスと文化」をキーワードにしている人たちにとってお勧めです。
写真©Ken Anzai