コンビニは「改良型モデル」なのか?
先月、ミラノのなかで引っ越したのですが、不動産屋にはずいぶんと助けられました。その一つの理由が、ぼくの苗字だと後になって知って、驚くやら笑うやら、です。
その不動産屋さんの1人が日本の文化に関心が高く、ぼくが名乗ったとき、バスケットボールをテーマにした漫画「SLAM DUNK」で出てくる監督の苗字と同じだ!と気づいたらしいのです。ぼくは漫画を読んでいないのですが、どうもその監督は信頼できる人物。なので、ぼくを信用して良い人間だ、と即判断したみたいなのです 笑。
そういう経験をした後なので、以下のエピソードは満更大げさでもないだろうと思いました。
ほんと、何が有利に働くか、よく分からないものです。
いや、日経新聞のこの記事を読んで、こういうことを書きたかったわけではなく、コンビニなるものが50年前に誕生して日本の社会や人の生活観(感)をいかに変えたか?に想いを寄せたのですね。
だって、日本の人が外国を滞在した時の感想で多く真っ先に出てくるのが「あの都市にはコンビニがないから、生活はできないと思った」「この都市にはそこそこコンビニに近いものがあるから生活できる」ですよ。コンビニを基準に、どこかの土地の生活のしやすさを判断しているのです。
あまりに安易と言えば安易。
そして、コンビニは単に「家の近くに大きな冷蔵庫がある」以上の生活空間をつくっている。それを簡潔に示したのが次の図です。おにぎりは自宅でつくるものであったのを「買うもの」に変えたことなど、イノベーションの最たるものです。
数々の退潮するインフラをコンビニが吸収し、「便利さ」を鍵にサービスの拡張が行われ、ビジネスそのものも大きくなってきたわけですね。それと並行して、日本の社会構造の変化を示しているのが以下の図です。
セブンイレブンは国内市場では「手を打ち過ぎた」ところがあり、これから中南米や欧州に「便利さ」を普及させていく計画のようです。便利さは多くのことを救い、大きな問題を小さくします。だから便利になることは推進すればよいし、当然、歓迎する人も多いです。
実は、この記事でとても気になるのは、以下です。特に太字にした部分。
コンビニは「0から1」か「1から10」という2つの範疇で論じるものだろうか? どうもひっかかるのです。ドラッカーは「偉大な社会革命」と形容し、実質的な創業者の鈴木敏文は「便利さは時代と共に変わる」と言っています。
コンビニは、どちらかといえば、ストックホルム経済大でリーダーシップやイノベーションを教えるロベルト・ベルガンティが語る「意味のイノベーション」の観点から論じるべきではないか、という誘惑にのりたくなるのですね。改善というイノベーションではなく、目的地自体を変えるイノベーションです。
エピファニーとは古代ギリシャ語で「何かを一瞬にして把握する」ことを意味しますが、テクノロジーの大きな変化と意味の大きな変化で交わったところに、このエピファニーが生じる。ここで目的地が変わる大きな社会変化がおきるわけです。
下記にあるように、コンビニは情報戦に多大な投資をしてきたのですが、これを上図にあるマーケットの要求を汲々と追う「市場プル」とみると、とてもじゃないですが「偉大な社会革命」にはなり難いですね。
仮にセブンイレブンが海外市場をこれから積極的に攻めるのなら、意味のイノベーションでのエピファニーを狙う、というのが適切なアプローチになるのではないでしょうか?
少なくても編集委員の書く解説記事なら、とは小売りの素人の戯言です。
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冒頭の写真は先月、ミラノで開催されたアートフェアMiArtで見かけた彫刻です。実際にアート市場で売買の対象になるのは、相変わらず二次元の絵画が多いです。しかし、商売にはなりにくくても、彫刻を扱うギャラリーが増えているというのですね。「三次元への欲求」というのはアーティスト側にもコレクター側にも潜在的にあるのでしょうかね。