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既に始まっている第三次世界大戦は「国vs国」の戦いではなく、「人vs人」の戦いだ

この日経の「パクスなき世界」の特集は、着眼点と切り口が面白いので全部読んでいるのですが、どうしても違和感があります。

「組織から個の時代へ」なんて話は、2000年代にベックやバウマンが既に唱えていた説だし、何もコロナがあろうとなかろうと、いずれやってくる未来であることに変わりはない。むしろ、無理やり「コロナによって世界が変わる」というフィルターを通して記事を構築してしまうのは、甚だ疑問なんですよ。

コロナ禍で増幅した不満やいらだちが反移民などの排外主義に向く。世界の混乱は価値観の断絶を映す。企業に所属するだけで豊かさの恩恵を被ることができる時代は終わった。断絶をあおるのでなく、変化が不可逆的だと理解し、時代に合った価値観へのシフトを促すのは政治の役割だ。

「コロナがあったから何かが変わる」という色眼鏡こそが害悪で、一旦そういうところから距離を置いた方がいい。新聞社としてはコロナを有効活用してPVを稼ぎたいという思惑があることも理解できますが、着眼点がおもしろいだけに勿体ないと思うわけです。


この特集では、"平和と秩序の女神「パクス」が消えた"という情緒的な表現をしています。しかし、そもそも、この世の中で「平和と秩序」とはデフォルトのものなんでしょうか?

逆だと思うんですよ。

平和と秩序が保たれている時期こそ稀有な状態で、人間は有史以来「敵を作り、敵を支配し、その敵を奴隷として活用することで成長」してきたのではないですか?

日本でいえば、第一次大戦から太平洋戦争までの道のりは、戦争による利益によって成長したことは事実だし、戦後は朝鮮戦争による戦争特需の恩恵を受けています。直接戦争に関わらずとも、戦争というものは必ず経済的便益をどこからもちらすものという特質があります。これは日本に限らず、成長する国の裏側には必ず戦争があります。

つまり、主語を大きく言ってしまえば、国家とは、戦争によって成長し、成長するために戦争をしてきたのです。


秩序という面から考えても、ある秩序が強固になればなるほど、ゆるい無秩序を許せなくなる。つまり、戦争とは秩序を守るために他の秩序を破壊する行為です。

平和と秩序の期間があっても、人間はすぐまた新たな敵を作り、理屈をこねまわして自己を正当化し、屁理屈で戦争をしてきた。それが人間の歴史です。

平和と秩序の女神「パクス」が普通だと考えるより、ローマ神話から引用するならば、「ベローナ」という戦争の女神が人間社会を支配してきたとみるのが妥当です。

しかも、ベローナとは、単に戦争の女神ということだけではない。戦争の神はマルスという男神もいます。マルスが勇敢さや武勲などの戦争の表の面の体現であるのに対し、女神のベローナは血や肉が飛び散り、殺し合う凄惨さという戦争の本質的な部分を表象するものです。

そして、戦争の形態は今新たな局面に向かいつつあります。

国と国との戦争は、下手すれば核兵器の応酬によって地球の滅亡につながる。20世紀のように今後は国と国が武力で全面対決することは避けるようになるでしょう。代替えとして起きるのが、人間と人間の戦争です。

別に、これは、武器を持って互いに殺し合うという原始的なものではありません。現代の戦争は、言葉という武器で人と人とが殺し合っています。心を引き裂き、精神的な血肉をズタズタに切り裂く戦争です。言葉の弾丸が日々何人も人を自殺に追い込んでいます。

誹謗中傷、差別、侮蔑、いじめ、マウンティング…。いろいろです。

中には、自己の血肉への欲望を満足させる対象として、生かさず死さず、じわじわ嬲り続ける者もいます。

そして、それらは大抵「道徳」や「倫理」という名の下の「くだらない理屈」によって正当化されます。「差別反対」という錦の御旗の元に新たな差別と精神的虐殺が起きるかもしれません。「自由を守れ」という名の下に、誰からの自由を剥奪し、心の牢獄へ閉じ込めようとするかもしれません。


残念ながら、人間とはそういう生き物なのです。「人を傷つけるのは人間の本能的必然」と喝破したのは、「戦争論」を書いたロジェ・カイヨワです。


もちろん、「私は違う! 」という人がいても結構ですが、誰もが恍惚として他人を傷つけることがあります。個人として他の見知った個人と相対する時はやさしい人でも、いったん集団としての怒りや恐怖の渦に巻き込まれると、個人の感情はすっ飛び、集団の感情に飲みこまれてしまうのです。

個人が考えることと集団として考える意思は別。

ひとりひとりを教育してなんとかなるレベルの話でもありません。


国と国との戦争は、相手国の国民を皆殺しにするまではやりません。国が降伏したらそれで終わりです。しかし、人間同士の戦争は相手を殺すまでやります。その残酷さを正当化しているのが、皮肉にも「道徳的正しさ」です。

今後、人間は互いに正しいと思う同士の個人と個人の道徳によってぶつかり、相手の個人の価値観や思想を徹底的に破壊しつくす道徳戦争の時代に突入するでしょう。まさに、ベローナの時代です。個々の国や民族の伝統や風習などお構いなし、グローバル化とはそうした世界標準化戦争と表裏一体なのです。

コロナがあろうとなかろうと、その予兆は始まっていた。インターネットという武器の普及によって。もっと大きく言えば、核兵器の登場の時から、もはや戦争は「国と国から、人と人へ」とすり替えられるように進行してきたのではないでしょうか?

カイヨワは「戦争論」の中で「戦争とは祭りのようなものだ」と書いています。ネットの炎上騒ぎで、普段おとなしい人が罵詈雑言の書き込みをしたりするのもまさに「祭り」のひとつの表れでしょう。


身体的な殺し合いだけが戦争ではありません。もう既に、世界は第三次世界大戦の真っ只中と言えます。マーケティングという名の人間支配または無意識の人間操作という戦争です。もともとマーケティングは戦争のメタファであることは知られていますが、あまりにもたくさんの情報が氾濫し過ぎて自ら選択することを放棄しはじめた個人に対して、ネットは無遠慮に「これはいかがですか?」とおススメしてきます。ネットの閲覧履歴を元に繰り返し同じような広告によって洗脳してきます。

PVを稼ぎにくる記事は、あえて読者を怒らせるような言葉を使って感情を操作します。怒りは不快です。不快だからこそ、その怒りの原因に瑕疵があると考えます。瑕疵の理屈付けを行えば、自分の怒りは正当化されます。正当化されることで安心して、その怒りの対象を攻撃できるのです。そういう意味で、コロナという感染恐怖は、個人を怒りを喚起するのにはとても都合のいいアイテムなんです。

これも、また個人の感情を殺しに来ている戦争なのだといえると思います。1930年代に世界を席巻した全体主義となんにも変わらない。

そして、忘れてはいけないのは、メディアもまたマーケティング活動のひとつであるということです。

いちいち怒ったり、怒りを和らげてくれる「これが答えだ」などという安易で単純化された言動などに惑わされず、「永遠に答えなどない」という意識でいることが結果的に安心な人生を送れるのかもしれませんよ。

答えを求めるという行為は、それ自体が「正解」と「間違い」を二分することです。それがいかにバカバカしいかお気づきになったでしょうか?

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。