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多様性とインクルーシブな社会のための「正客」論 〜起業家の僕が女性とアートを応援する理由

お疲れ様です。uni'que若宮です。

弊社uni'queは女性がもっと活躍できる社会になるよう、「全員複業」や「バンドスタイル」などちょっと変わった仕組みを通じてチャレンジを行っているのですが、先日大変ありがたいことにそういった取組みを評価いただき、これからの日本をつくる働き方のアワード・「Work Story Award」にて「イノベーション賞」に選んでいただきました!めでたい!ドンドンパフー!


「複業」や「バンドスタイル」はすべて女性が活躍できるための組織はどうあるべきかを僕なりに考え抜いた結果なのですが、「女性の活躍を全力応援!!」という話をすると、よく皆さんから「なんでおじさんなのに女性のための会社を?」と聞かれることが多いので、今日はそれについてちょっと書きたいと思います。


MOTTAINAI

先日、テレビ東京開局55年記念「池上彰vsニッポンの社長100人大集結!SP」という番組にひな壇芸人的に出演してきたのですが、その際に改めて痛感したことがありました。(さてどこにいるでしょうか!)


収録は5時間もの長丁場に及んだので、膀胱に爆弾を抱える僕は収録の合間の休憩時間当然のようにトイレに行ったのですが、おどろいたことに男性トイレだけがすごい行列になっていたんです。

普通、商業施設やイベントでは女性トイレに行列ができることはあっても男性トイレに行列ができることはめったにありません。なのにどうしてこの日に限ってこんなことになったかというと、100人の社長の9割以上が男性だったからです。日本の人口分布的には男女比はほぼ一緒なのにもかかわらず、起業家や新規事業のオーナーはそのほとんどが男性で女性は圧倒的少数なのです。

この比率のちがいはあまりにもいびつではないか、と思いますし、またそれ以上に、もったいないな、と思うのです。たとえばuni'queはスマホのサービスを提供していますが、スマホサービスを考えるなら世界のユーザーの半分は女性ですし、InstagramやLINE、メルカリなど女性のニーズを捉えたサービスが成功しています。(性差を単純化しすぎてしまうのは危ないのですが、とはいえ生物学的なちがいはやはりあるので)女性のニーズは男性にはやはり理解しきれないところもあるので、女性が主導する事業には事業機会があるし、成功可能性が高いのではないか。

もちろん、収録にいらした方の中に前職DeNAでお世話になった南場さんのように素晴らしい経営者や大活躍している女性はいらっしゃいますしすこーしずつですが増えてきているとは思います。でもまだまだ。そういう事例がもっと増え、もっと当たり前になるといいな、と思います。


「二項」は「対立」しがち

女性の活躍が増え、女性の能力や権利が当たり前に認められるようになってほしいと思うのですが、比率が非対称な現状は一足飛びには解決されませんから、やはり少数派の女性は「女性」ということですごく注目されたり、逆にこの状況を変えていくために自分たちの能力や権利や主張をしていく必要もあります。

そしてそのように女性が取り上げられたり、女性の主張を耳にした時、男性は男性側の擁護に立ってしまいやすくなる、という問題があるように思います。

女性マネージャーの登用を進めようとすると「逆差別だ!」と男性側の反発があったり、「コミュ力が高いから不平等」と言われて受験が不利になったり、#me_tooの主張をした人が叩かれたり・・・

結果として、どうしても対立構造になってしまいがちです。これは女性と男性だから起こることではなく、構図としては割とみられるもので、2つの異質な集団があって片方が自分の良さを主張すると、他方がそれに対して押し返したり反発してしまう。


茶道における「正客」

ここでちょっと話題を変えて、茶道における「正客」という役割について話したいと思います。

これはむかし、同じくCOMEMOのKOLをしている、新城健一さんに教わったことなのですが、お茶の席とその体験においては、お茶を振る舞う「亭主」以上に「正客」の存在がとても大事なのだそうです。

「正客」というのは、招かれたお客さんのうち筆頭に座る客のことで、この人が一番最初にお茶を味わうことになります。「正客」は誰もがなれるわけではなく、お茶に対しての造詣が深い人でなければならず、「正客」に選ばれるのはお茶を習うことにおいてある種の名誉でもあります。

お茶の席というのはお茶が美味しいかどうかだけではなく、ある種総合的な文化の体験です。茶室に飾られた掛け軸やお花、茶道具、それぞれに意識を向け愛でながら、空間と時間を味わうのが「お茶」なのです。この時、いくら「亭主」が気の利いたものを仕込んでもお客の側に知識や理解がなければ、せっかく仕込んだアレンジは気付かれもせず、体験されることはないままに終わってしまいます。

そこで重要になるのが「正客」です。「正客」は茶会が始まると、亭主に質問をしたり対話をしながら、その席の意図や仕込んだ品の価値を、他の客に対して「見える化」していくのです。

「正客」がいなければ茶会の良さは何も伝わりませんし、「正客」の造詣が不十分だとお茶会の味わいも不十分なものになってしまいます。逆に「正客」が素晴らしければお茶会の感動は何倍にもなるのです。さきほどお茶の席にとって「亭主」以上に「正客」が大事、と言った意味がわかっていただけるとおもいます。


「正客」は「客」だからこそ、体験を変えられる

僕はこの話を聞いた時、本当にすごいと思いました。さすがは何百年も続いてきたお茶だなと。そしてこのシステムにおいて重要なのは、"「正客」が「客」であるということ"だと思うのです。

単に情報を伝える、という役割であれば、これはこれこれこういう由縁の掛け軸で、とかこの茶器はとても貴重で…、などと「亭主」本人やあるいはその助手が解説することも可能です。

ですが、それではこの体験の変容は起こらない。

さきほど「二項」は「対立」しがち、ということを述べましたが、亭主が「これってこんなにすごくってー、この茶器とかもうやべえのマジ」みたいなことを言ってしまうと招かれた側としては「お、おう。。。」ってなりますよね。

恩着せがましいですし、そこにどうしても”うさんくささ”や”鼻につく”感じが出てしまいます。(「手前味噌」とか「自画自賛」という諺があるように、日本では特にそれを素直に受け取れない受容の癖が強いようにも思います)


これに対し、「正客」が引き出したり解説する情報は、提供側ではなく「客」だからこそ、他の客の共感をよび、すっとその体験を変えることができるのです。

先程の茶席の図をもう一度見てみましょう。「亭主」と「客」の席は向かい合っており、心理学的にはわかりやすい「対立」の構図です。ここで「亭主」が自分サイドの良さばかりを主張すると、どうしても客側は「はあ」と冷めてしまったり「いやいやいやいやいや」って反感を買ってしまう。

その役割を、同じサイドの「正客」がすることで、客は「共感」をもって良さを受け入れることが出来るのです。こういったことは言い方は違いますがとても注目されていて、バイラルマーケティングにおけるインフルエンサーやコミュニティマーケティングにおける「1stピン」は要は「正客」そのものだと思います。


「マイナーだが素敵」なものを伝える正客でありたい

最近改めて考えてみると、僕の行動原理は「正客」でありたい、ということのようです。

学生時代、DJやアートイベントのオーガナイザーをしたり、女性を応援していたり、またいま「アート思考」と言っていたり。

DJというのもプレイヤーではなくフロアの代表としての「正客」ですし、
イベントのオーガナイザーも自分がファン!というような出演者を集めていて、ある種「最前列の観客」のようなところがあります。

おじさんながら、おじさんサイドから女性のすごさをわかってほしい、とおもうのも、ビジネスの領域にいながらアートのちからを伝えたい、と思うのも、全て「正客」的なモチベーションなのでは、と思っています。

そしてそれは「客」としてこちら側にいるからこそできることなのかもしれないな、とも。


実はかつて僕は、アーティストや出演者と自分を比較してしまい、所詮はジェネラリストな自分にコンプレックスをもっていたこともあります。クリエイターに憧れるけれどどうしてもそこまではいけない。ジェネラリストというと聞こえはいいけれど、要は平凡なだけじゃないか。

けれど、どんなに素敵なものも「正客」がいないと伝わらないこともある。特に少数派の価値は、「正客」がいないと抹殺されたり看過されたり矮小化されたりしてしまう。0→1の新規事業やスタートアップばっかりするのも、そういう少数派の知られないニーズをなにか見える化したいということなのかもしれない。


そして多様性があり、インクルーシブな社会のためには、こういう「正客」のような役割をする人がもっと必要になるのではないかとおもうのです。2つのものをつなぐ、というと、中立的な第三者や「カタリスト(触媒)」のような中間的存在をイメージしがちですが、「客」としてこちら側にいながらにして他方をおすすめするこちら側にいるからこそおすすめできる、というやり方もある。


だから「正客」でありたい。あくまで「客」だからできること、そして一番の「客」としてどうすると価値が最大化できるのかな、ということをこのところは考えています。

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