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こんまりも、前言撤回した。

賛否両論起きようと話題に取り上げられてる時点で、もう彼女たちの術中にはまっている気がするのです。(もし意図してないなら、それもそれですごい)

だって私、改めてnetflixで彼女の番組を見て、インタビュー雑誌まで買ったんですもん。(めっちゃ課金)
そして国を越えた「片付け」への共感性のすごさ、人生にまで波及できるドラマチックさ(コンテンツ力)を目の当たりし、また最初の著書の内容も思い出しました。(当時すぐ買いました〜)
「すごいなあ、ときめくものだけを残しなさい、って10年以上同じこと言ってる…」からの、彼女の片づけギブアップ宣言。
まあ確かに怒る人いるだろうな。
巻き起こっている議論の中には「騙された」だとか、一方「彼女は今最も”ときめくこと”が家族との時間なのだから一貫性がある」という人もいたり。
私が一番印象に残ったことは「人生かけた大事業でも、前言撤回していいんだ」でした。

大人とは、責任をもってやり遂げること?

思い返すと、世の中の出来事は「やっぱ、やーめた」されると、困ることばかり。雇用、ライフライン、異次元の少子化政策(本当にやり遂げるんでしょーね?)、「この時間には帰ってくるって約束したよね?またワンオペさせるわけ?!」とか。(話それました?)もはや途中でやめても問題がないことを探す方が難しくなってきました。

始めたことは、責任をもって最後までやり抜く」。それは世の中が回っていくうえで大前提の大切な約束。「大人になるとは、責任を背負うこと」なのだわ…と今更痛感します。

でもそれがときに人生を縛り付け、苦しめてしまうこともある気がします。
よくよく自分の中を整理すると、ひとつやふたつくらいは、もしかして「すみません、前が間違ってました」とか「やっぱりやめます」って言っていいことがあるのかも、と感じました。大体はプライド系な気がします。と思ったら、インタビューの雑誌は、もはや私の仮説の答え合わせになっており、彼女達は何枚も何百枚も上手で、その先を見ていると分かりました。(詳しくは書きませんが)
私の「やっぱりやめます」はなんだろう。まだ探し中です。が、このnoteでは、頭いいフリせず、背伸びしない実感で書けることを書こうとは改めて思いました。(ま、今までもそうだったんですけど。つい周りを見ると心揺れまして)

斜めな目でも見てみる、ほどよい距離感

もうひとつ、今回感じたのが、のめり込みすぎない大切さです。
神様と信じていたものが、実は違うことがある。
そのぶん裏切られたと思うと、怒りや悲しみも深く、戻ってこれない気もするのです。この論争が、誰かが今かかっている強すぎる魔法(もはや呪い?)が少しゆるむきっかけになればいいのになと思ってます。
もちろん何か推すのは良いこと。でも何でも「ほんとかな~?」ぐらいのちょっと斜めな気持ちを少し持っても、信じるものへの裏切りではないはず。それに全面的に信じることは、ある意味の思考の放棄であるとも感じていて。

今正解とされていることだって分からない。コロナも何十年後、どういう結果にたどり着くのか誰も知らない。
コロナじゃなくとも、病院に行って治療法を聞いたりすると「今はもう、そういうのやらないんですよー」とか言われたりする。当時の最先端で、これしかないといわれていたことも、時代が変われば平気で前言撤回されてますよね。
たぶん私が死ぬ時が色んなことの答え合わせなんだろうな、それまでは正解なんて何もないかもなー。
ま、とりあえずやってみて、ダメだったらまた考えよ。
という感じでまた来月、試行錯誤しながらのこのページでお待ちしております。




ここまで読んでいただきありがとうございます。 読んで、少し心がゆるんだり、逆にドキッとしたり、くすっとしたり。 おやつ休憩をとって、リフレッシュする感じの場所に ここがなれたらうれしいです。