ビジネス用語のクオリア(「未来をつくる言葉」) | きのう、なに読んだ?
ドミニク・チェンさんの「未来をつくる言葉」を読んでいる。
ドミニクさんとは、一時期、数人の仲間と共に集まっては雑談会をしていた。本書も、出版前からご案内をいただいていた。ドミニクさんの著書で、しかも副題が「わかりあえなさをつなぐために」と来たら、私が好きな内容に決まってる。大切に読み進めていたところ、3月21日の日経新聞のランキングで見事1位になっているのみつけた。ほら、やっぱりいい本よね!と、我が事のように喜んでいる。
ドミニクさんは、幼少時から仏・日・英の3カ国語に囲まれ、自身の吃音と折り合いをつけ、さらにはプログラミングやアートといった自然言語とは異なる形での表現方法も身に付けてきた。本書では、そうした多様な言語・非言語表現経験と、それに伴うドミニクさんの内省的な心象風景が語られている。それを、心理学、芸術、著作権といった、幅広い学問体系の知見と往復させ、普遍的な「わかり合うこと」の輪郭を浮かび上がらせている。
たとえば、ドミニクさんは子どもの頃、まずフランス語から読み書きを覚えた。その後、漢字に初めて触れた時の印象を、次のように記している。
ある日、私は「国」という漢字が、どうしてこういうかたちをしているのかと不思議でしょうがなくなった。しばらく考えて、母に自分の仮説を述べたのを覚えている。(略)字形に自分の解釈を試みる自由度があることに、強烈な面白さを感じた。(略)ふりかえってみれば、表音文字を使うフランス語で読んで書くという経験を最初に覚えたわたしにとって、表意文字としての漢字というものが新鮮に思え、それ故に魅惑されたのだと思う。
言語表現、そして非言語表現にまつわる心象風景を、本書の前半部分では「クオリア」として扱っている。クオリアとは「人の認知を研究する分野で、個体の中で主観的に立ち現れる感覚意識体験のこと」だ。
私は、ドミニクさんのような多様な表現体系は身につけていない。でも、小学校時代から成人後までのうち8年間アメリカで過ごしたことから英語には親しんでおり、日英2カ国語間の感覚の違いにはずっと興味を持ってきた。さらに、異なる言語の間では感覚がどのように異なるか、にも関心がある。
例えば、「赤」に当たる語は様々な言語にある。どの言語でも共通にその語で意味される「赤さ」があることが、認知言語学の分野で明らかになっている。しかし、オレンジから紫までの幅のどこからどこを「赤」と認識するかは、言語によって違うという。
別の例をあげよう。オーストラリア現住のクウク・サアヨッレ族の言葉では、日本語で「左」や「右」という表現の代わりに、あらゆる方向を絶対的な東西南北の方角で言い表す。「右の脚にアリがついてるよ」ではなく「南西の脚にアリがついてるよ」と言うそうだ。そしてこの民族は、一般的には人間には不可能と信じられているレベルで、絶対的な方角感覚が優れているという。
私たちは、身につけた言語体系によって、「赤」と聞いた時に思い浮かべる色合いや、「南西」という言葉から立ち上がる身体感覚が、大きく異なる。個人間でも言葉から想起されるクオリアが異なるだろうことも、容易に想像できる。
私自身も、最近、言語によって立ち現れるイメージが異なることをビビッドに体験した。同僚が勧めてくれた「禅マインド ビギナーズ・マインド」という本を読み始めた時のことだ。本書は、アメリカの禅の基礎を築いた鈴木俊隆老師が英語で執筆したものだ。そこで日本語訳ではなく、英語版を入手した。すると冒頭に「 Beginners’ mind が大事だ、日本語では ”sho-shin” と呼ぶ」とある。sho-shin、ショシン…「初心」!「ビギナーズマインド」というカタカナ表現、”sho-shin” というアルファベット、そして「初心」という漢語から受ける印象の間には、私には大きな落差があった。英語のネイティブスピーカーが beginner’s mind という表現に触れた時、日本人が「初心」という語に触れるのと同じ感覚を持つのだろうか、と不思議になった。
この落差は、芸術や文芸に限定される話ではない。ビジネス用語にも同じような「感覚の違い」がある。
例えば、会計用語にある「のれん代」または「のれん」。企業を買収・売却する際に発生する、純資産額と買収額の差だ。これを英語では “goodwill” という。日本の初学者が「のれん代」という用語から想起するイメージと、英語圏の初学者が “goodwill” から想起するイメージには、差があるに違いない。
さらには、英語をそのままカタカナ用語として使う場面での、ズレも興味深い。例えば、「顧客セグメント」。「購買行動において似通っている顧客の塊のこと」を指す。日本にいる私たちは、「セグメント」という語は「顧客セグメント」にしか使わない。初めて触れた時は「何それ?」と思い、ビジネスの専門用語として覚える。では、英語のネイティブスピーカーはどうか。segment は、オレンジなど柑橘類の房であり、幾何で習う「切片」だ。そして、一般的な用法として「全体をいくつかの部分に分けた時の、その一つ」という意味がある。つまりsegmentは、ビジネスやマーケティングとは関係ない、日常生活に根付いた用語なのだ。マーケティングの世界で、ある時「購買行動において似通っている顧客の塊」という概念が生まれ、一般的な用語である segment を転用したのだろう。日本人にとっての「セグメント」と、英語のネイティブスピーカーにとっての segmentでは、想起されるクオリアはずいぶん異なるのではないか。
「アカウンタビリティー」「エンゲージメント」「ビジョン」と言ったカタカナのビジネス用語は、どれも、そうした「クオリアのズレ」を抱えている。
話を「顧客セグメント」に戻すと、「顧客層」という日本語で代替されることもある。segment は柑橘類の房のイメージ。「層」は、上下に積み重なっているイメージだ。また segment は全体があっての部分というニュアンスだが「層」には前提となる「全体」のイメージが薄い。
私はここでは「何が正しいのか」という議論にはあまり意味を見出さない。でも、他者と自分が同じ言葉を使っていても、感じるクオリアが違うだろうという想像力は、いつも持っていたい。同じ日本語を使っていても、そういうズレは日常的に起きている。
今日は、以上です。ごきげんよう。