アートが中世工房へ回帰? —— クラフトとアートの行方
19世紀のイタリア王紀・マルゲリータがナポリで食べた「イタリア国旗にちなんだ、赤いトマト、白いモツァレラチーズ、そして緑のバジル」のピッツァを大変気に入ったために、そのタイプを「ピッツァ・マルゲリータ」と呼ぶようになったとのエピソードがあります。
しかし、これが真実かはかなり疑わしい、と指摘する諸説を上の記事は紹介しています。
歴史はもとより、さまざまな現象の記述、あるいはものごとの分類において、あまりにきっちりと表現されたものは、「嘘」が入っていると思った方が間違いがないです。
昨今、さまざまな分野やレイヤーで「ボーダーレス」「融合」が語られます。しかし、そもそもにおいて境界の設定に万能感をもたせること自体がおかしい、との認識が適切ではないでしょうか。あくまでも分析のために設けた境界線が、いろいろとやっかいな物議を生む要因になったきたわけです。
この例として、現在、盛んに話題になる「デザイン」「クラフト」「アート」の三つの領域の重なり合いを、セラミックを素材に語ってみようと思います。
セラミック作品の文化圏による評価差
土を使うセラミックは世界中、どこにでもあります。メソポタミアでは紀元前7000-6500年、高温加工の発明で陶器ができるようになりました。保存容器として使われはじめ、後々には器の主流を占めるに至ります。もちろん、地域によって作り方や表現、あるいは評価が異なります。
その違いの一つ。ヨーロッパにおいてセラミック作品は家具などと同じく「応用美術」の領域にはいり、「純粋美術(ファインアート)」とは一線を画します。いや、どちらかというと、ファインアートが一線を画して高見にたつ位置を18世紀後半に確立しました。
ヨーロッパにおいては、いわゆる工芸と絵画の間に差を設ける。工芸、つまり応用美術は「用を足す」ものであり、どちからというと、ファインアートのように「意味を問う」ものの方が上位であるとの認識を広めました。
一方、こうした境界を「西洋文化導入の一環」としてヨーロッパ以外の地域でも適用することもありますが、「基本、境界線をひくのはヨーロッパの独自文化」との立場をとります。ですから日本における工芸品は「ファインアートに劣るものではない。我々の文化では両者は同じレベル」と、その分野の人たちは明言します。
問題はこの次にやってきます。日本で芸術的にも経済的にも高評価を受ける用を足すセラミック作品(例として茶道に使われる器)。これがヨーロッパの市場で同様のレベルで評価を期待するのは難しいとの現状があるのです。異文化の狭間で壁にぶちあたる、一つの実例です。クラフトとアートの境にある溝です。
「デザイン」の「アート」への接近
20世紀、デザインは大量工業製品をメイン分野とし、後半期になるとコンピューターのユーザーインターフェースなどに範囲を広げ、今世紀になるとソーシャルイノベーションへや経営戦略と「広い意味」のデザインが力をもってきます。下図のチャートでは上半分が「デザインの専門家」領域ですが、下半分の範囲で「デザインの非専門家」が活躍するような契機が増加してきます。
このようなデザインの拡大傾向と並行し、実はもう一つ別の変化があります。デザインのアートへの接近(歴史を辿れば回帰)です。デザインはある一定数の量をつくるのを条件とすることが多かったわけですが、いわゆる「一品モノ」「ワンオフ」、もっと言えば「プロトタイプ」もデザイン作品と見なしてしていくのです。当然、普通の店舗ではなく、デザインギャラリーで取引されることが多いです。
このジャンルの特徴は、かろうじてであっても「用を足す」形状、または機能はもっているか、なんらかの具象的な姿を模している。つまり、まったくの抽象的な形状であるのは少数派になります。
デザイナーはデザインギャラリーのみならず、アートギャラリーとも取引をしたいと希望しますが、ヨーロッパのファインアートの立場からすると「世界が違う」と線を引かれることが今までの普通であったと言えます。上の2つの写真はデザイナーのPatricia Urquiolaの作品ですが、1番目がワンオフで、2番目が量産で店舗で売られます。
さらにざっくりとした傾向を言えば、大量製品→デザインのワンオフ→ファインアートの作品の順序で価格は高くなっていきます。
「クラフト」と「アート」はどうなのか?
さてクラフトは前述の応用美術に入りますが、それをつくる人は「作家」と「職人」のどちらかが曖昧なところに位置しています。自ら構想するアート寄りだと作家、アーティストやデザイナーの構想に沿って作るケースが多いと職人と称されやすいです。およそ職人のカテゴリーは素材と技法が規定し(セラミック、竹、紙、金属など)、アーティストは思想や構想が表現にあう素材や技法を選択するでしょう。
パブロ・ピカソはアーティストとしてセラミックを扱った先駆的な人でした。彼は自らでカタチをつくるのではなく、セラミック工房の職人のつくる皿に絵を描いたり、自分のスケッチにあわせて職人に作品を作ってもらったのです。その作品数、およそ5千と言われます。
だが、このところアーティスト自身の手でセラミック作品がつくられ、また「セラミスト」(陶芸家)と称する人に手によるアート作品が目につくようになります。セラミストは職人とアーティストの両方の性格を含みますが、やや後者にポイントがあるようにみえます。下の写真の作品をつくった人は、セラミストですが、アーティストとも称しています。
アーティストが「ロックスター」ではなくなる?
以上に述べたような現象のなかで、ラグジュアリーはお互いに重なるロジックを上手く「切り分ける」のではなく、「重ね合わせる」のを得意とする領域です。
服飾史研究家の中野香織さんと書いた『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』では、ラグジュアリーとは何か?の議論を盛んにする素材が、ラグジュアリーとして好適であると指摘しました。
そのなかでアートの意味の変化についても触れたのですが、ニューヨークでアートアドバイザーを務める野口智美さんが、本書を読んで次のような感想を寄せてくれました。まさにアートとクラフトの関係変化に言及されています。
ぼくは本書のなかで、このおよそ20年間で肥大したファインアート市場と蜜月関係をもってきた旧型ラグジュアリーの限界を指摘しました。今のあり方は、アートの大衆化に過ぎないのではないか、と。大衆化は普及すること自体が目的化する弱点があります。とすると普及の先には何もない・・・目指すべきは、常に新しい地平が広がる再起動ボタンがどこにも埋め込まれたエコシステム(条件)をつくっていくことです。
一方、アート分野に携わる人たちが、「今、セラミックが面白くなってきている」といちように語っているのを聞いてきました。過去、アーティストはあまりセラミックを使わず、ギャラリーもセラミックを扱うところは一部でした。それがアーティストはセラミックを扱いたいと語り、ギャラリーも少しずつセラミック作品を展示しはじめています。
そうしたら、野口さんも同じ感触をもっていたのでした。その背景としては、マテリアルがそれこそ「土に戻る」のが可能であるのも大きいでしょう。
彼女の予測で刺激的なのは、クラフトやセラミックの関心の向こうにみえる大きな変化です。アーティストがもつロックスターのような知名度で世界に影響力を及ぼす構造が、もしかしたら崩れていくかもしれないと言っているのです。
デザインの世界では一人のヒーローの存在への風あたりが強くなっています。クラフトの世界では圧倒的に無名な存在が多いです。さて、このなかでアートだけが、西洋文化文脈に沿ったヒーローが存在し続けるのか?は、考えて悪くない問いだと思います。
<7月2日追記、この記事を野口さんに送ったら、次の返事をいただきました。>
写真©Ken Anzai
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