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STUフィクションと未来:3つのフィクション

こんにちは、新城です。サイエンス・フィクション、テクノロジー・フィクション、ユーズドテクノロジー・フィクションという3つのフィクションについて。ここでいうフィクションは、ファンタジー(夢想)ではなく、未来を垣間見るために描く、エビデンスベース(根拠を持つ)のフィクション(仮説的物語)です。今回は、3つのフィクションについて書いてみたいと思います。

3つのフィクション

Science Fiction(SF)サイエンス・フィクション。論理的に可能であろう、遠い未来の物語。荒唐無稽に思えるものであったとしても、そこで展開される人々の生活は、論理的には不可能ではないという根拠を持ったもの。その可能性の確度に応じて、ファンタジーに近しいものもあるかもしれませんが、ここでは理屈として実現できそうな未来の物語です。

Technology Fiction(TF)テクノロジー・フィクション。これは、5〜10年くらいで社会実装されるであろう、とても近しい未来の物語。現在の市場には導入されてはいないものの、技術的には可能であることが明らかになっているもの。企業の研究部門などで基礎技術の研究が行われているものが市場に投入されたときに、人々の生活がどのように変化するか、といった物語です。

心筋

2019年6月に開催されたG20大阪サミット併設国際メディアセンター内広報展示「JAPAN INNOVATION LOUNGE – HEALTH × INNOVATION」ゾーンに出展した際、隣のブースで見せていただいたIPS細胞から作られた心筋シート。ひよひよと動いていました。

Used Technology Fiction(UF)ユーズド・テクノロジー・フィクション。これは、既に市場に出回っている技術だが、未だそうした使われ方をしていない、という物語。既存技術の転用や複数の既存技術の組合せによる新たな価値創造に対するフィクション、既存商品の新しい利用シーンなどに対するフィクションなどを指します。これは、さらに具体的に、現実の生活がどのように変化するかを物語ることができるでしょう。

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医療VRベンチャーHoloeyes株式会社の資料より抜粋。VR/MR技術というすでに市場に導入されている技術を医療領域で活用するとどのような価値を生み出せるか。オケージョンのフィクションという意味合いも持っています。

これは、今から20年ほど前、僕が小説を書いていたころ、『INAHOラボ サードアイズレポート』というメタフィクション小説の単行本に掲載した、東京大学で当時からVR技術を研究されていた廣瀬通孝教授(東京大学先端科学技術研究センター教授)との対談の中で整理されたものです。この言葉は、この20年間、僕が未来を考える上で、ひとつの指標になっていました。

カンブリアナイトとScience Fiction

遠い未来の「Science Fiction(SF)」、5〜10年で社会実装される「Technology Fiction(TF)」、すでに社会実装されている技術の使い方の提案として「Used Technology Fiction(UF)」。奇しくも「STU」というアルファベットの順なのですが、UFはマーケティングの仕事で、TFは新規事業のレンジ。やはり、SFが未来を牽引するビジョンをつくる上で、改めて大切だと思うのです。

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カンブリアナイトには、現代の先端的な活動が集まってきます。昨日と違う明日をつくろうとする今日の動き。社会にちりばめられた次の時代の萌芽、その事業の種や基礎研究などを、カジュアルに触れる場としてのカンブリアナイト。そこと併走するように、未来の生活をフィクションとして描く「カンブリアライジング(仮)」。フィクションをノンフィクションにするのが実事業だとするならば、まずフィクションを描くことが大切で。しかも、なりたくない未来ではなく、なりたい未来を描くことが大切だと信じています。

車だって自転車だって目線の方向に進みます。「こうなりたくない」という未来ではなく、「こうなりたい」という未来を描くことの大切さは、そうしたフィジカルな体験にも根差していると思うのです。

また、物語は、生活する人のミクロな視点で描かれるもので、事業計画的なマクロな視点と対になることで、多角的に未来を描くことにつながり、多様な視点で未来を見つめる手がかりになるとも思うのです。さらに、プロの小説家や映像作家から小学生まで幅広い人に未来を描いてもらうようにしたいとも思うのです。

先日、Mistletoe ファウンダーの孫泰蔵さんと話していた中で、「1990年〜2000年前後には、UFがマーケティングの隆盛とともにもてはやされました。2000年〜2020年は、TFの時代(スタートアップ、ディープテックなど)が脚光を集めました。しかし、もはやそれでは「こうなりたい」という未来を描ききることができない状況になってきた現在、SFに行く、というのは必然の流れだと思います」という整理をしていただき、改めて時代の流れと合致していることに思い至りました。

フィクションは無価値

フィクションなんて意味がない、フィクションなんて娯楽だ。そういう意見もあるかもしれません。

唐突ですが、『ロビンソン・クルーソー』の物語をご存知の方も多いと思います。難破した船乗りの一家が無人島に打ち上げられ、そこで生活をした物語。実は、1719年の初版本は、ロビンソン・クルーソーという本人が書いたものとして出版されたそうです。この当時、真実にこそが価値があるとされており、 フィクションは読む価値のないものと考えられていたそうです。文学は、歴史・神話・伝説に準ずる、真実を語るものであるからこそ価値をがあると認められていたのだとか。神話や伝説に準ずることが真実を語ることにつながるのかどうかの解釈はさておき、フィクションが無価値である、という感覚には根深いものがありそうです。

そこから165年後の1884年になっても、ロンドンの文学誌上において、フィクションは個人的な人生の感想に過ぎないのか、という議論がなされており、フィクションの価値について懐疑的な意見が根強かったことが伺えます。

また、日本においても、フィクションを価値のないものと見る動きが近年まであったようです。日本の作文教育を振り返ると、明治時代には型を重視する形式模倣主義だったものが、大正時代に子ども中心主義の動きと共に、型を壊して子どもらしい文章表現を重視する綴り方が提唱されたそうです。綴り方とは、単なる書く技術ではなく、体験や考えをありのままに書くという行為を通じて人格修養することを目的とした教育でした。この綴り方が、戦後の学校作文として受け継がれていく中で、子どもが見たまま感じたままを綴る学校作文という型を作り上げた、と言われています。1900年代初頭にあった綴り方運動というものの中で、経験していないことを子どもに書かせる創作文は人工的で虚飾に満ちた文章を生むと、フィクションは批判されていたのだそうです。

フィクションの価値

しかし、僕たちは、知っています。フィクションが、未来を描くことを。その未来が、少しずつ現実になってきていることを。明るい未来もあれば、暗澹たる未来もあるでしょう。けれども、運転している際に見ている方向に車が少しずつ向かっていくように、具体的に想い描く目標に生活が近づいていくように、想像する未来へと現実は少しずつ近づいていきます。少なくとも、そのベクトルは一致していきます。

その意味で、未来を描くフィクションが重要であることは、疑問を差し挟む余地のないところでしょう。自分の人生に対する未来像。企業の未来像。国の未来像。規模の大小は違えど、未来を見据えることは、未来像を描くことにほかなりません。

日経新聞でも、未来会議というシリーズがはじまっています。

新型コロナ(COVID-19)に対する全世界規模の感染症対策という異常事態に直面し、僕たちは、昨日と同じ明日を想像することの難しさを知りました。日常のくり返しは、当たり前ではないということ。日常と呼んでいた昨日は、薄氷を踏みながら進む日々の、その過去の足跡でしかなく、同じ明日を保証するものは何もないのだということ。

未来を考えるとき、この経験は、大きな転換をもたらしてくれると思うのです。昨日と同じ軸線上にある明日を漠然と思い、積み上げの未来を安易に考えることの難しさを知りました。その意味で、UFやTFでは、僕たちの行末を考える上では、物足りないのかもしれません。より大きな視点で、高い視座で、未来を描くために、SFというアプローチが必要なのだと思うのです。

今回の記事の前段として書いた記事があります。あわせて読んでいただけたら嬉しいです。


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