見出し画像

街を「舞台」と見なす発想が、地方創生には有効なのかも。

企業経営のなかで「選択と集中」というキャッチフレーズがよく正当性をもちます。限られたリソースのなかで、そうなにからなにまでできるものではない、と。しかし、これはリスクの分散化と相性があまりよくないし、将来の伸びるかもしれない芽をつぶすかもしれない、との危惧と背中合わせにあります。

その懸念を踏まえたうえで選択をして集中する。それが企業のあり方のひとつなのでしょうが、どういうわけか、この言葉に引っ張られているような地方創生プロジェクトが目につくのが長い間、気になっていました。これが今回のテーマです。

実は、このテーマで本稿を書こうと思ったきっかけは、意外に思われるかもしれませんが、次の記事です。

保坂真隆さん(65)は4年ほど前に俳優の養成所、劇団東俳(東京・豊島)に入った。現役時代はホテルマンとして働いたという保坂さん。大学時代に経験していた演劇の舞台にもう一度立ちたいと、同劇団が開いたオーディションに応募した。「多様な役を演じることができるのが俳優の面白さ」と魅力を話す。ドラマにはエキストラを含め数十作品に出演したという。セリフが3つだけの演技でも、練習には1週間を費やし、表現を繰り返し考えた。「多くの人が注目する作品で主役を演じたい」と今でも夢を持ち続ける。より大きな舞台に立つために水泳や散歩をして体力づくりにも励んでいる。

俳優の夢へもう一度 舞台やエキストラ、シニアの挑戦

シニアは若い世代に道を譲れとの話が多いです。しかし、舞台や映画などの世界となると、若い役者だけではストーリーが成立しないことが殆どです。あらゆる世代の役者が登場することで街の風景は成り立っています

「あっ、これだよ」と思ったのですね。

どこのローカルも24時間365日の生活で成り立っている

当たり前すぎる現実ですが、人は24時間365日のどこかを自主的に削れるわけもなく、その時をひたすら延々と生きています。その結果、ある時間が経れば、少年は青年になり、もっと長い時間の後に老人になります。

ある特定の世代が集まりやすい場は存在しますが、ある物理的広さに拡大すれば、赤ん坊から高齢者までが混在するのがローカルの風景です。

そして、さまざまなことをしています。赤ん坊にとっては公園で遊ぶのがおつとめだし、10歳くらいの子は学校で勉強し、青年になれば何らかお金を稼ぐ仕事をするでしょう。もちろん、仕事の種類は数多あり、人々は好むかどうかにかかわらず、そのどれかを選んで時を過ごします。

どの時がより重要ということは基本的にないはずです。「休みの時を大切にしたい」「食事はゆっくりとりたい」「睡眠を削って仕事をしたくない」との個人の方針や好みはあるでしょうが、時そのものに色がついているわけでもありません。

ですから、「この地域では〇〇の時を重視します」と行政のトップが言ったら反発を食うだけです。少なくとも民主主義を任じる社会であれば、との前提がありますが。企業のような目的をもったコミュニティではないのが、ある地域のローカルのあり方です。

「選択と集中」は土産的発想と紐づいている

したがって、数多くの種類の24時間365日を背負っているのがローカルの現実そのもので、資産です。しかし、「我々は24時間365日の時を淡々と過ごしています。それは平凡な空間と時です」とあまりに正直に告白(?)すれば、あまり人は振り向きません。

ある程度、知名度がある場の人が、そう言えばより評価があがることがありますが、多くのケースはそうではない。

だから、地方の交通も便利ではない地域が何とかして多くの人をよんで経済的な潤いを求めようとすると、「我々の強みは何か?」というビジネス的な考え方に傾いていくわけです。

いわば、競争原理に引っ張られます。

「これは、あそこの地域にもあるから独自性に欠ける」というような議論を重ね、「これは、当地にしかない!」と何かを再発見すると、それを大々的にPRするのです。で、ご当地ものの土産を作ったり、シンボリックな人形を作ったりと、わさわさとやるのですね。

なんか、無理があります。

「土産もの」という発想をやめる

ここは、ある程度「比喩」であるとのベースで書きます。

特に、日本の社会について言うならば、「土産もの」という発想が極めて強いのが文化的特徴でしょう。もちろん、欧州においても、ご当地のお土産は存在します。だが日本の人ほどに、どこか旅先で友人や知人のために土産を買っていくとの習慣がさほど強くありません。

そこで、日本のこの土産ものという習慣が、地方創生を考えるときに「地方資産のスペック的捉え方」の下地にあるのではないか?と思うわけです。まさしく、「選択と集中」は土産的な発想に紐づいている、と。

そうすると、また別の点に頭が働きます。

実は世代間の断絶も同じ根っこにある?

冒頭で書いたことにも戻ります。世代の話が盛んですが、これは高齢者のために行政の予算が使われ過ぎ、若い世代の育成に十分ではない、というような文脈とは別のところに「も」震源地が別にあるのではないか?と思い至ります。

軍隊でもないのに、あらゆるところに先輩と後輩という構図が張り巡らされている社会であり、その「面倒くささ」が世代間の断絶を後押しているところがあります。イタリアにおいても、世代間の「言い合い」はありますが、もっと交流がある。それは世代を超えた会話のなかに、それほどの面倒くささがないからでしょう。

即ち、日本の地方のコミュニティのコミュニケーションが面倒くさいから、一挙に「選択と集中」との隠れ蓑を利用したがるとの傾向はないだろうかと思うのです。

あまり健康的な思考回路じゃないですよね。

全国にあるシニア劇団の交流活動を推進するNPO法人、シニア演劇ネットワークの理事長を務める鯨エマさんは「お芝居は、誰かの人生に触れることができる」と話す。人生後半、自分ではない誰かを演じるのも悪くないかもしれない。

俳優の夢へもう一度 舞台やエキストラ、シニアの挑戦

紹介した日経新聞の記事はシニアの演劇志向について書いていますが、ローカルの街を舞台とみなす発想が地方創生には有効なのかもしれません。

冒頭の写真©Ken Anzai


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?