社会貢献を実感したいなら、”社会”を”WE”と読み解いてコモンズを形成する仕事をしよう。
こんにちは、MOTIONGALLERY大高です。
今回の記事は日経朝刊投稿募集「 #仕事で社会貢献を感じた経験 」への寄稿なのですが、自分の仕事が給料や会社の利益だけでなく、「社会に貢献している」と実感できるのはどんな時なのかと聞かれてふと立ち止まりました。
そう、実感がない・・・。
近年の自分でいうならば、
昨年の緊急事態宣言下で行った『ミニシアター・エイド基金』
だったり、今年セレモニーを行って動き始めた社会彫刻家基金だったり、
わかりやすい「社会貢献活動」と思わしき活動にがっつり取り組んで来たことが増えたこともあり、にわかに社会貢献的な人間だと言ってくださる方が増えてきたということの実感はあります。だがしかし、いざ、それらの仕事を通じて「社会に貢献している」と実感できたか?と聞かれれば実感は無いという回答になる。そもそも「社会に貢献しようとして」取り組んでいる活動ではなく、強いて言うならMOTIONGALLERYとしてのパーパスに取り組んでいるんだよなという感覚が去来しました。
少し「社会貢献活動」の現況を俯瞰して考えて見るに、一般的に想起される社会貢献活動自体も日々更新されていて、「ボランティア(つまり経済活動ではない)」だからこそ社会貢献活動であるとされていた時代から大きく変わり、そのソーシャルグッドな活動を持続性のあるものにしていかなくては行けないという観点から、社会貢献活動でお金を儲けることが「悪」ではないよねという認識も広がり「社会起業家」という概念も広まってきているし、一方逆サイドでは「SDGs」や「EGS投資」などの要請からも、普通の営利企業であってもその企業のパーパス自体に社会貢献的な何かが組み込まれ、そして実際にコミットすることが生存戦略として重要になってきている。アルビン・トフラー「第三の波」よろしく、どんどん社会のグラデーションが深まる現在、「ソーシャルグッド・オリジンな活動でも経済性も考えなくてはならず、営利オリジンな会社でも社会貢献も考えなくてはならない」という境界線の融解が進んでいるのが今ではなかろうか。
そういう意味では我々MOTIONGALLERYも「株式会社」という原則は営利を求める形態ではあるので、NPOなどと比べると社会貢献活動しているとは見られにくく、実際、「MOTIONGALLERY」という単位では社会貢献やソーシャルグッドという文脈で我々の活動がメディアやらイベントやらに取り上げられることは滅多にありません。しかしながらMOTIONGALLERYは文化の多様性の応援を通じて社会貢献をしていると自認しており、その志向性や哲学は「ミニシアターエイド基金」や「社会彫刻家基金」のアクションにも強く通底していると感じている為、MOTIONGALLERYというプラットフォーム自体が社会貢献活動と言ってもいいのではないか?と思ったり。そんなことを考えているうちに冒頭の通りふと立ち止まってしまったのです。
そこで、MOTIONGALLERYを通して自分がやってきた様々なアクションに対して、「MOTIONGALLERYでの仕事を社会貢献活動と自認していいのかもしれない」という感覚と「社会貢献活動とはみなされていない」という感覚の間に横たわる溝みたいなものについて考えてみると、そこからなにかが立ち上がり、僕のように一般的なビジネスを営んでいる多くの人が「 #仕事で社会貢献を感じた経験 」を実感できるのではないかと考えました。自分も含めて。
『K2』の開館から考察
そんな考察の手がかりになるちょうどよいプロジェクトに今取り組んでいます。
MOTIONGALLERYの”仕事”でもあるけど、「ミニシアターエイド基金」や「社会彫刻家基金」と同じく”事業”とは言い切れない少しボランタリーなプロジェクト。それが下北沢に来年1月開館予定のミニシアター「K2」です。
そうなんです。演劇の聖地、ライブハウスの聖地、サブカルの聖地、飲み文化の聖地。様々な文化が深く根付いている下北沢に、それぞれの文化の結節点であり、そしてシモキタを愛する人達の共有地となるようなミニシアターを立ち上げます!
この「K2」が誕生する場所は、小田急線「東北沢駅」〜「世田谷代田駅」の地下化に伴い、全長約1.7kmの線路跡地を開発して生まれる新しい“街”「下北線路街」( https://senrogai.com/concept/)。
2019年、「下北線路街」に新しく映画館をつくれないかと、大高にご相談が舞い込んだことから『K2』の物語は始まりました。その後起こっているコロナ禍を経て、更に「映画館をつくる」ことについて考える機会が増えました。そこでシンプルに「映画館をつくる!」にとどまらず、下北沢で今ミニシアターをつくる、ということの意味をゼロベースで考え直してみて運営のビジョンとしてまとめてみるというプロセスを経たことで、「社会に貢献している」と実感するということについて繋がるものがあったと感じています。
・改めて感じたミニシアターの社会的意義
『ミニシアター・エイド基金』は、「その状況に少しでも時間的余裕を」ということで始まりました。そしてこれが我々にとっても、ミニシアターの存在の大きさを改めて教えてくれる、非常に特別な契機となりました。
そこにあったのは、「ミニシアターを守りたい」という映画ファンの大きな大きな声です。またその声から私たちは、各地のミニシアターがどれだけ地域に根ざした活動を、それこそ日々コツコツと行ってきたのか、小さな支持を積み重ねてきたのか、と強く実感しました。
この経験を通じて、ミニシアターが社会に存在する意義についてより一層考え、感じる機会となったと同時に、この状況下で新しくミニシアターを立ち上げることの重要性を強く感じることになりました。そこに有ったのは、文化と社会貢献という関係性が必ずしも多くの人には直感的につながらないかも知れないけれども、「映画館」という公共性を伴った場所が主語になると、途端にその接続がわかりやすくなるのだなという実感でした。
主語は小さく。社会を”WE”と読み替えよう
そう、それは主語は小さくしていこうということ。
社会を”WE”と読み替えることで、より「社会貢献」が身近に実感でき、しかも実効性を帯びるのではないかと思うに至ります。
これまで自分が「社会貢献」と実感しないことの理由の1つに、
たとえば自分が取り組んでいる文化領域の活動においては、なんとなく「社会貢献活動ではない」という暗黙知が社会全体にあったことが理由の1つな気がします。
もちろん自分としては、文化活動の活性化や多様性の拡大は、社会をよりよい場所にしていくという信念があり、そういう意味では間違いなく社会貢献活動だと自認はしているのですが、その論理展開には距離があるのは事実であり、たとえば発展途上国の子供を助ける活動に比べるとどことなく「趣味」と受け止められる雰囲気があるのは否めません。
しかし、『ミニシアター・エイド基金』は間違いなく社会貢献活動と認知される活動であった。それはなんでだろうかと考えると、「映画館」というローカルを支える場所の支援であったことで、「映画」というソフトではなく「館」というハードであるがゆえに地域経済と直結するということが、急速に「趣味」と「社会」の間を直感的に縮めた効果があったとは思います。
そして、そのような気づきの上に、更に本質的に重要だと感じたのは「主語」は小さくする」ことと社会貢献は相反しないどころか効果的であると実感できたこと。
社会という主語は大きい。へたするとこの日本に生きるあまねく人に共感されて貢献していると感じる活動である必要を感じてしまう。でも、であるからこそ、社会貢献を実感できる人が少ないわけだし、その意識をもって実行するのがむずかしくなるからこそ、実際に社会を動かす実効性や生活社に実感がない総花的なものも増えてしまう気がする。
『ミニシアター・エイド基金』は映画とローカルという意味で一見社会全体に貢献した活動のようではあるが、冷静に考えてみると「映画や映画館が好きな人」の中での支え合いである。これは実は『ミニシアター・エイド基金』を発起するときに発起人のメンバー内でもむしろメッセージにはこの意識はしっかりもとうという話もしていた。なぜならば、コロナ禍に苦しんでいるのは映画館だけではないからだ。本当に多くの人が同時に苦しんでいる中で、ミニシアターだけが助かればいいと思っているという誤解を生んでしまうことのダメージは間違いなく非常に大きい。そもそも「ミニシアターはどうでもいい」「優先順位は低い」という人が社会にいるのは間違いないし、当然その考えは間違いではない。その中で敢えて基金を立上げる大義。それは主語を「映画や映画館が好きな人」と小さくすることで誤解なくそれでいて大きなうねりを起こすことであった。
これが間違って、これまでのボランティアの活動や「共感を広く得たい」みたいなマインドで、主語を大きく「社会にミニシアターは必要なんだ」のような主語を大きくしていたら、この結果にならなかかったであろうと思います。
つまり、社会貢献活動といった瞬間、その活動の主体や対象や活動メンバーといった”WE”が”社会”とイコールでなくてはならないととてつもなく大きくなりがちである。しかし、本当はそのイシューに興味関心がある人だけでもいいんだと少し肩の荷を卸し”WE”を無理ない範囲で定義してもそれは社会貢献に繋がるのだとすれば動きやすさや実感する機会が大幅に増えるはずだと思うんです。
なんせ社会は様々な”WE”の集合体。
そして、グラデーション化している社会において、社会という大きな主語と一致する”WE”はもはや存在しないのだから。
”WE”が”社会”と言い切るには、コモンズの形成が前提なのではないか
でも”WE”でまとまるものの活動が社会貢献とは言い切れないのではないか?と思った方も多いと思います。
ひとくちに”WE”と言っても、例えばそれこそ単なる趣味のサークルであったり、1人のカリスマを頂点に抱く新興宗教だったりするかもしれない。それらと何がちがうのだろうかという問いではないか。そこでまずは「I」と「WE」を繋げるものによる違いを考えてみたいと思います。
・これまでの自分の活動とミニシアターが通底しているものはなんだろう?
改めてこれまでの自分(I)とミニシアター(WE)とのつながりを振り返ってみました。
映画が大好きで映画館に通い詰めていたものの映画に関わる仕事に就こうとなんて思っていなかった学生時代。しかし政治哲学という一見遠い領域を専攻していたことで結果的に映画やアートに携わりたいという方向性に導かれたり、はたまた脱サラして藝大に進学したのにそのまま映画製作ではなくクラウドファンディングを立ち上げるというこれまた一見遠い領域で活動し始めたのことが結果映画館の運営に携わることになったりと、本当に不思議な縁を感じています。
そういう意味で、長年かけて自分(I)とミニシアター(WE)が偶然つながった瞬間のように感じますが、一方で(I)と(WE)の間に「公共性」という概念が強く横たわっていたことを自覚しました。なぜならば、自分の振れ幅の大きいキャリアの中でも「文化」と「公共性(もしくは親密圏)」という社会彫刻という概念に収斂するワードが常に僕の中では活動に共通しており、そしてミニシアター自体もその「公共性」を強く担っている場所であるからです。
・”コモンズ”としての映画館
ミニシアターには、図書館ではないけれど何となく似た公共性があって、それでいてちょっと妖しさもあって、それらを引っくるめて教会のような、お祭りのような、人が集まって何か企みがあって面白そうというような期待がある。これが街にあることでそこで流れが生まれて動きをもたらすような、そんな街の重要装置たりうる。
このところ、小さなコミュニティに注目が集まったり、個人がSNSなどを使って発信することの方が大手のブランドよりも信頼が厚かったり、レディメイドの画一的な大量生産品からオーダーメイドやDIYに耳目があつまる機会がふえたり、大量生産・大量消費の社会から循環型社会に「時代が変わった」。そして、前段でも同じような話をしましたが、役割の境界が混ざってきています。ではそんな現状の中で映画館はどうその社会を体現した場所にすればよいのか。そう考えていくと、”公共性”そして”コモンズ(共有地)”というワードがやはり重要なものであると気づきます。
コモンズ自体の概念の詳細な説明は、
に譲るとして、生産活動の拠点となり公共性と生活を密接につなぐ、言い換えれば公共性という概念を、実態のものとして関与できる場所が”コモンズ(共有地)”であるとするならば、映画館の運営自体にゆるくも関われる余白を積極的に提供していくことで、映画館は”コモンズ(共有地)”になれると思っています。逆説的には、”コモンズ(共有地)”となる場所に整えることで、「WE」を形成することができるとも言えます。
もともとミニシアターは、その街の文化を映す鏡のような場所であり、文化の多様性を私たちに教えてくれる場所になっている。そんな社会的意義を、多くの方々とこのコロナ禍で改めて共有・認識したことで、ミニシアターが新しく生まれるということに、映画作品の出口がまた一つ増えるというような単純なことではなく、下北沢という街のための新しい文化施設が生まれ、年齢も性別も関係なく、街の人(=住民の方も働きに来ている人も遊びに来ている人も表現しに来ている人もみんな)が思い思いに立ち寄れる”共有地”が増えることだと考えるようになったことがこれらの考えの下敷きにありますが、実際に、そうビジョンを定めた途端に「WE」が見えてきたし、それが”社会”にイメージが広がっていくのを感じました。
一般的なビジネスの領域で考えても実は同じです。大量生産・大量消費の社会から循環型社会に変わるということは「マス」の形成がしづらくなって来ているということ。それがすなわちグラデーション化する社会に繋がるわけですが、そうなるとビジネスであれソーシャルアクションであり「号令」や「広告」が効かないわけなので、そのイシューを「自分ごと」にした「WE」の形成がとても重要。これはまさに我々MOTIONGALLERYが展開しているクラウドファンディングという”ビジネス”でもそうであるわけです。
では、この「WE」の形成に当たり、「自分ごと」になる人を増やし活動に多くの人を巻き込ませていただくことが「自分勝手(そのビジネスの勝手)」になることと、社会に貢献できる活動に親しいものになることとはなにが違うのか。その鍵がやはり”公共性”だと考えています。
この”公共性”というワードも”社会”と同じく大きな主語として誤解されがち。この”公共性”が実存していて且つ生産活動にも直結する概念が「コモンズ=共有地」ですが、コモンズというと急に主語が小さく聞こえてくるから不思議です。
前述の通り、私たち映画館「K2」は 「コモンズ=共有地」というものをコンセプトに掲げることにし、具体的に街の声が映画館に反映されて「自分ごと」が増えるように、プログラムの一部を街のプレイヤーに開いくことで、文化的共有生産拠点にしていきたいと思っていますが、そういうふうに、IとWEのモチベーションが同期する為の場所、そしてその仕組みが公共性が実装された場所である「コモンズ」なのではないか、そしてそれはまずは「WE」の範囲内であれ、メンバーが自己利益だけでは無い視点で共感しある種の利益を享受できるGOODなアクションが駆動するわけで、社会貢献活動の大きな一歩であるといえるでしょう。
1人の「I」に共感する人だけが集まり、「I」の意思の実現に取り組むという形での「WE」もありますが、それが社会貢献活動とは言えないのはそこには公共性という観点、つまり自己利益だけではないユニバーサルな検証が入ったアクションにはなりづらく、結局そのGOODが個人に偏ることになるからだと思います。言い換えれば「WE」ではあても公共性が宿っいないのであれば他者性が強固に存在する「社会」との接続は希薄であるといえるでしょう。
社会という曖昧模糊でグラデーションがあり、それでいて大きい主語であるものと接続するには、「We」が公共性を宿している集団となっている、つまりユニバーサルな視点が介在していること、そしてそれは必然的に「コモンズ」になっているはずであると言えるのではと思います。
映画館「K2」のコンセプトとして、下北沢の文化的”コモンズ(共有地)”を掲げさせていただきましたが、まさに文化の公共性である映画館を、下北沢に関わる人たちが主役となる”コモンズ(共有地)”として運営していくことで、きっと下北沢に、そして映画文化に貢献することが出来るのではないかと考えたのが、ビジョンに掲げさせて頂いた理由ですが、振り返って見ると、”WE”が”社会”と言い切るには、コモンズの形成が前提なのではないかという仮説がそこにはあったんだなと思いました。
トップダウンからボトムアップへ。
そんなふうに、色々考えていくと、社会貢献活動も、今の企業活動を始めとした様々な活動と同じく、1人の社会善に繋がるビジョンを実装するトップダウン方式から、社会善がなんなのかを集まって共有し討議しつつトライアンドエラーで正解を探ろうとする「コモンズ=共有地」的なボトムアップ方式に転換していくのではないかと思っています。
これはある種民主主義のジレンマに近い話を孕んでいて、1人から繰り出された社会善に繋がるビジョンがとても正しく、社会善がなんなのかを集まって共有し討議しつつトライアンドエラーで正解を探ろうとす方が間違ったビジョンを提示していたり時間がかかったりということは容易に想像できます。
また「コモンズ」というどう考えてもとても良いはずの概念が社会に定着しない背景の1つには、コモンズの悲劇が常に起こってしまうからでしょう。コモンズをコモンズとしてしっかりと運営しつつ、コモンズの悲劇を防ぐというのはある種の語彙矛盾も孕んでいてとてもハンドリングが難しいと思います。
それでもなお、「正解はない」グラデーション化する社会において、「正解が見えない」激動の社会において、結果よりもプロセス、正解よりも合意、権利と責任、という民主主義の基盤に立ち戻り、それを日々の行動に取り戻すことが、大きな意味で社会貢献活動であると言い切りたいと思います。コモンズを形成したのであれば、そこで生まれるアクションやアイデア自体が必然的に社会を豊かにするものであり、そしてそのプロセス自体が民主主義の社会実装の一助であるからです。
実際、「コモンズを形成する」ことそれ自体が社会貢献活動であるという認識が広まった方が、多くの人により身近に、そして実感する社会貢献活動になるはず。
しかもそれは、今様々な企業活動や仕事も、「WE」をつくることが要請されているわけなので、それを正しく「コモンズ」を創る方向性と企業利益を接続させた上で「WE」をつくる業務にしていけば、仕事を通じて実感する社会貢献に間違いなくつながると思います。
我々も、下北沢という街の文化のつくり手として、街の人が参加者になる。 消費者ではなく当事者を生み出す場所となることで、新しい才能も生まれてくると期待しています。結果、映画人口の拡大の実現にも寄与していきたいと思っています。
#COMEMO # 仕事で社会貢献を感じた経験