他者との関わりの遮断が生み出した別の恐ろしいウイルス
人との関わりというと、すぐ自分と他者との関わりだけと考えがちだが、自分と他者との関わり+自分との関わりがあるということを忘れてはいけない。
この記事にあるように、コロナ禍において、私達は「人との直接的な関わりを持つな」と言われたようなものである。直接会うな、直接会話するな、一緒の大皿の料理を食べ合うなんてとんでもない、複数でカラオケで歌うな、飛沫が飛ぶ。常にマスクをしろ、アクリル板で仕切れ、会話なんてリモートでスクリーン上でやれば事足りる、握手するな、手をつなぐな、抱き合うな、キスなんてとんでもない。
自分の身を守るために他者との関わりを極力なくせというようなものである。これは、言い換えれば、「他者とは自分の命を危うくする敵である」という認識と一緒だ。
個人的には、2020年からずっとコロナ騒動開始当初からこの騒動には疑問ではあるが、今もなお大騒ぎしている人はたくさんいる。
ちなみに、日本ではコロナでの死亡者は2年間累積でも2万人弱。年間あたり1万人の規模である。年間140万人が死亡する時代において、コロナでの死亡構成比はわずか0.7%に過ぎない。そんなものにメディアが連日報道して大騒ぎするほどのものなら、コロナの2倍以上いる自殺はどうなのか?年間40万人死亡する癌はどうなのか、とも言いたくなるが、ここでそんなことを言っても仕方ない。とはいえ、0.7%死亡率のウイルスのために、ほぼ100%の人たちが「他者との関わり」を遮断したのみならず、「他者を敵視」するという心情を植え付けてしまったことの罪は大きいと思っている。
もちろん、コロナがあろうがなかろうが、人は皆「敵である他者」を必要とする生き物である。仲間であることを意識するためには必ず敵が必要だからだ。残念なことに、全員が仲間だよね、全員大好きだよ、なんて状態に人間は耐えられない。
敵を同じくする者同士の間でしか仲間意識は生まれない。倒すべき敵がいなければ人間は協力できない。敵がいないのならば捏造してでも敵を作らないと我慢ならないのが人間だ。
古来より地震や水害などで自然災害の多い日本では、その敵の役割を自然が担ってきた部分もある。常にどこかで災害が起き、それに伴う飢饉が起き、誰の責任も問えない形で大勢の身近な人間が死んでいった。
その責任を問えない自然という敵がいたからこそ、日本人は東日本大震災で見られたような「他者との助け合い」が息づいているのだともいえると思っている。
ウイルスもまた自然と同じような「責任を問えない敵」と思うかもしれないが、ウイルスが人を媒介として感染する以上、「ウイルスをうつした人間が悪い」という責任化が明確になる。だから、コロナ禍では表面上「他者との関わりを敵」としながら、その実「他者と言う人間は敵」という意識を芽生えさせた。それこそずっと、コロナなんかよりよっぽど恐ろしいウイルスだと思うわけです。
人と関わり、交わり、触れ合って仲間意識を得てきた人たちにとってこれは非常につらい状態だろったろう。リモート飲み会がつまらないと全く流行しなかったのもそこである。直接触れ合わない交流では心が満足しないからだ。
コロナ禍以降に進学した大学生や、就職した新入社員もまた同様の心の欠落感を味わったと思う。リモートでも授業はできるかもしれない。研修はできるかもしれない。しかし、それは単に情報の伝達でしかなくて、直接教室や職場のデスクで語り合う「なんともいえない満足感」はまったく得られない。なぜなら、本質的な「他者との関わり」を体感していないからだ。
それは、単純に他者との関わりの機会を失ったからというだけではなく、前述した通り(必要以上にコロナを怖れるがあまりの)「他者は敵」という意識が広まったからだろうとも思う。
本来、身近で親密な人間との友好や愛を感じるための方便として必要だった「敵」という概念が、自分または自分の身近な家族以外全員敵という思考を植え付けられたら、それは社会的孤立を感じざるをえないだろう。
他者との直接的な関わりが失われると、自動的に「自分との関わり」を失う。これは僕が著者でも記事でも何度も言っている通り、他者との関わりは、自分の外側に人がいる安心感という問題ではなく、関わったことで「自分の中の新しい自分を生み出す」きっかけだからだ。
つまり、「他者と関わる」ことは「自分と関わる」ことを意味するのであり、「他者と関われない」ということは「自分とも関われなくなる」ことなのである。
自分というものがまずありきで自分が存在しているわけじゃない。自分とは、他者との関わりの中でしか生まれてこない。母親との関わり、家族との関わり、学校での関わり、友達との関わり、仕事での関わり、そういう人生における他者との関わりでしか自分は作られない。何一つ自分だけの力で自分というものを存在たらしめているものはない。
ちなみに、常にだれかと一緒にいるべきだなんてことは言っていない。他者との関わりにおいて、自分と関わりへと昇華させるためには必ず「一人の時間」が必要だからだ。逆にいえば、「一人の時間」がない他者との関わりは、他者と関わっているとはいえない。群れに埋没しているだけだ。
他者すべて全員敵とするコロナ騒動は、もういい加減どうなの?コロナに感染しないだけで、それはもう生きているとは言えないのではないだろうか。
※ここにある「他者との関わりで自分の中に新しい自分を生み出す」という考え方についてはぜひ拙著「結婚滅亡」をご一読ください。