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人によって違う「当たり前」を制して、幸せになる技術とは?

私の友人の話です。

彼は人も羨む高収入の、多忙な人物なのですが、奥さんからこう言われたそうです。

「収入なんかいくら安くたっていいから、家にいてくれるダンナの方がいい」

彼は経済的に恵まれた環境を築くことが家族の幸せに通じる、ということを「当たり前」の事とずっと頑張ってきたわけですが、そんな努力は奥さんの「当たり前」とは噛み合っていませんでした。

これが彼が離婚を決意した大きな転換点になりました。

人によって「当たり前」の差は大きく、それを自律的にマネッジすることができれば、幸せの増幅につながるように直感します。

というわけで、今回のお題。世の中の当たり前を変えるための技術、です。


題意は、ITの力で市民生活も含めたオペレーションの当たり前を変える、ということであるような気もしますが、本コラムでは上記の文脈に則って「当たり前」を、疑われることのない考え方ややり方、ルーティン化していること、という具合に解釈したいと思います。

そして具体的な当たり前の例から出発し、それを変えるのがどんな技術か、考える、という具合に論を進めてみたいと思います。

「具体的な当たり前の例」

現在年収650万のあなたは2つの会社から、中途入社の内定をもらいました。この2社は同規模・同業種の企業であり、内定したポジションもスタッフの人数や業務内容など近しいものでした。

A社の年収提示は700万で、B社は750万でした。あなたはどちらを選びますか?

この例でいくと、B社を選ぶのが当たり前のように思われます。

それは何故でしょうか?

収入は、多い方が「得」だからです。つまりこの場合は「損得」という物差しを収入の多寡に当てて、額面が多い方を選ぶのが「当たり前」である、と判断するわけです。

では、上の状況に、こんな条件がついたら、どうでしょうか?

「尚、A社においては、同僚の収入平均は680万である(ので、おそらく同僚より高く評価されての入社となる)。一方では同僚の収入平均は800万である(のでおそらく値踏みされての入社となる)。」

これだとB社を選ぶのに抵抗を感じる方もいらっしゃるのではないか、と思います。この時抵抗が発生する心的なメカニズムは

・まずA社B社の年収絶対額を、損得の物差しで評価し

・次に各社における同僚との年収差を、「承認欲求を満たしてくれるか」「公平か」という物差しで評価し

・上記2つの評価結果が対立している

ことにより発生しています。


人間は何かを評価するときに、絶対値ではなく、何かの基準点を恣意的に決めて、そこと比べ相対的に評価する、ということをします。この基準点のことを行動経済学では参照点と言います。

たとえば、同期入社の友人が全員昇進したのに、自分だけ取り残されたら、「当たり前のように」なんとも悔しい気持ちになるのではないでしょうか?

それは、「会社でのポジション」という物差しを、自分も含めた同期入社の仲間に当てはめるので、そのように感じるのです。

また、これから実施するプロモーションの企画を評価するのに、「当たり前のように」去年何をやったか、ということを参照したくなることはありませんか?

今年何をすべきか、ということは去年の施策とは独立しているはずですが、去年の実施内容や結果を基準に考えたくなってしまう、というわけです。

同期入社との比較も、去年の施策との比較も、人間の「参照点を恣意的に決めて、そこと比べ相対的に評価する」という性質に基づいたことです。

それは人間の性質に根付いていることなので、ごく自然に行われ、その評価は当たり前のように、その時の態度や意思決定に反映されます。

人が自分自身で下しているその評価は、人を一喜一憂させるものであり、たとえばピラミッド型の会社組織、昇進・降格などの人事制度はその性質を巧みにモチベーションに変換するための仕組みである、と言えると思います。

しかし、同期を対象に、ポジションという物差しで、自分を評価する必要や必然性はどこにあるのでしょうか?

2社からの内定事例も同様です。同僚の平均給与と自分のそれを、比較する必然性はどこにあるのでしょうか?

「仕事を通じてXXを達成する」「会社にXXのような形で貢献する」という具体的なイメージや目標があれば、同期は背比べの相手ではなく、それをともに達成する仲間、ということになるはずです。

となると、参照点に基づく比較癖は、人間が「当たり前」のように帰結し、しかし最前ではない結論を招く悪習たりえる、と言えそうです。

冒頭の内定2社の事例も、A・Bと2つの選択があるので(したがってどちらかが参照点になるので)このように比較して悩むことになるのです。そもそもA・Bのどちらかからしか内定をもらっていなければ、現在の環境と比べてAにしろBにしろ(たとえば)「得」であるという、判断ができたわけで、選択肢が増えたことにより、葛藤が生じ、意思決定(転職!)によりもたらされる満足や幸せの度合いは、むしろ下がっているかもしれません。

では、その当たり前をどう変えるか、ということで、ここで、「技術」の話に。

ここでスポットライトを当てたいのは、物事を見る技術や、評価する技術です。つまり、人のこういった傾向を理解し、何か意思決定するときは、どんな物差しで何と比べて(あるいは比べないで)評価すべきか考える、という習慣を持つということです。

評価・意思決定の際に物差しとなることは「損得」だけではなく「善悪」「スジ」「好き嫌い」など、いくつかのバリエーションがあります。今取り組むその意思決定が、どの物差しを援用して考えるべきなのか、そして比較すべきでない対象は何なのか、意思決定に入る前にきちんと考えておくのです。

これらを考えるにあたり大切なのは、どうすれば、どうなれば自分は幸せなのか、満足なのか、ということです。何にせよ意思決定をするときは、自分の価値観と向き合うことが必要になるという次第。

これを踏まえて、冒頭の内定2社+同僚との年収差の事例を考えると。

もしもあなたの幸せが、経済的な成功により加速するものであれば、損得を物差しにするのが正解だし、それ以外の物差しは使わないようにする、というのが賢い方針であるように思われます。

しかし、あなたの幸せが「他の人よりもうまくいく」ことなのであれば、A社を選ぶのも筋が通った考え方だし、現在の環境であなたがすごく認められているのであれば、転職しない、という選択肢もあろうかと思います。鶏口が成功の近道か、それとも牛後なのかは、畢竟本人次第なのですから。

私の友人が経験したほろ苦い「当たり前」のすれ違いも、自分の幸せ観と元奥さんのそれが異なっていることを、確認したりすり合わせたりすることなく時間を過ごしてしまったことから、どんどん傷を深めていったものなのではないかと推察します。たとえば、結婚初期の対話により、元奥さんの幸せ観をつかんでいれば、彼は今風な在宅主体で仕事を組み立て、高い収入と家にいることを両立できたかもしれません。もっとも離婚を回避した方が良かったかどうかは、彼が決めることであり、他人が論評するのは、大きなお世話と言えるでしょうが。

最後に。参照点も含め、行動経済学には人間のバイアスが体系化されています。これをうまく意思決定に援用すると、幸せや満足の増幅に結びつく可能性が大きい、というのが本日ご紹介した話です。

ダン・アリエリーと記した、筆者近刊「幸せをつかむ戦略」にもこれらは詳しいので、ご興味の向きは、ぜひお試しくださいね




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