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この社会で自分はどんな役割を演じているのか

コロナで様々な困難さが社会全体にあるなかで、久々に日本にもたらされた明るいニュースだと思ったこのニュース。

その直前にも、第71回ベルリン国際映画祭で『偶然と想像』がで審査員グランプリを受賞したばかりとあって、昨年のヴェネチア(共同脚本作『スパイの妻』銀獅子賞受賞)を含めると、この2年間で立て続けにBIG3で授賞という桁外れの快挙を成し遂げた濱口さん。

(もちろんこの期間にミニシアター・エイド基金を発起し運営されていたことも忘れてはなりません。全国のミニシアターのための運動をしながら映画を2本撮影して・・・と考えると凄いな・・・。)

そんな凄いニュースからはや数ヶ月。今年の7月に開催された第74回カンヌ国際映画祭で、日本映画史上初となる「脚本賞」を受賞した濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が遂に劇場公開!

コロナ禍の状況が悪化しているなかでの公開ということで、座席制限や上映回数の削減などなかなか大変な状況での公開ではあるものの、それでも各方面で話題となっている。

すでにカンヌ映画祭での脚本賞受賞などで話題となっている本作は、村上春樹の同名短編が原作で、ほかの短編の要素も入っている。つまり「磨かれた小説の言葉」を、濱口竜介監督らが映画シナリオの言葉に換えて、俳優たちに口にさせたものだとも言える。じつは、ここにこそ、この傑作映画の主題は隠されている。
簡単に言えば「言葉を口にするとは何か」「演じるとは何か」だ。
世界三大映画祭で受賞ラッシュ。「世界のハマグチ」と称される存在に駆け上がっているが、自身の武器については、どのように感じているのだろうか。

「武器は……『面白くあろうとしている』ということじゃないでしょうか。上映時間が約3時間あったり、情報量が多かったり、見る側にとってはそこそこハードルの高い映画だと思うんです。でも、観客に分かってもらわなくてもいいとは一切思っていませんし、観客にとって面白いものを作ろうという気持ちは常に持っている。そこが大きいのではないかと思います」

繊細なセリフの積み重ねで人間模様を浮き彫りにし、想像を超えた展開で驚きを与える。様々な「面白さ」が詰まった『ドライブ・マイ・カー』は、濱口監督自身にとって、どんな作品になったのか。

「1本、何か道が通っていくような映画になったんじゃないかと思います。それはどういう道か? うん、どういう道なんでしょうね(笑)。でも、自分が自分のまま別の何かになっていくというか、自分のまんま別のところに行く。別のところに行くことによって、別の何かになっていく。そういう道筋が描けたと思います」

映画『ドライブ・マイ・カー』あらすじ

本作『ドライブ・マイ・カー』は、数々のベストセラーを生み出してきた作家・村上春樹による短編小説「ドライブ・マイ・カー」を原作とする映画。映画『ドライブ・マイ・カー』ではそんな村上作品の持つ虚実入り交じるような浮遊感を受け継ぎながらも(特に登場人物たちの私生活の部分では特にそれを感じました)、「ワーニャ伯父さん」、「ゴドーを待ちながら」という時代を超える名作舞台作品が、劇中劇として重要な役割を映画のなかで果たしていくのだが、登場人物達が”フィクションを演じている”その舞台及びそれに至る演技ワークショップのシーンではその舞台の古典がもつ歴史の重さなのか、なにか現実という磁場を強く実感する、そんな非常に重層的な映画だ。


舞台俳優であり、演出家の家福悠介。彼は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、妻はある秘密を残したまま突然この世からいなくなってしまう――。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は、愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすなか、それまで目を背けていたあることに気づかされていく…。

映画のあらすじとしては、このような感じ。
とてもミステリアスで、その妻が残した秘密とは何なのか、そして家福は今本当はどんな精神状態で何を求めて行きているのか、それを知りたいというだけでもどんどん映画に引き込まれてしまい、気づいたら2時間59分が過ぎてしまう。そんな手に汗握る瞬きも許されないような映画。

そうそう、今回の作品も2時間59分(笑)。さすが濱口監督。
『ハッピーアワー』では5時間 17分、『寝ても覚めても』では2時間と、やはり濱口作品はとても長い。そして毎回凄いと思うのは「見てみたら長いと感じない」に留まらず「むしろ短かったのではと感じてしまう」ところ。見終わると、むしろこんなに1カット1カットものすごい密度で、間延びもせず、よくこの短さでこの作品を描ききれたなあと思わされる。『ハッピーアワー』も5時間見続けたあとにそう思っていることに気づいた時には自分で笑ってしまいました。

泣ける映画はいい映画なのか

そんなこんなで、映画『ドライブ・マイ・カー』を観た感想として明確に言えることは全く泣けなかったという事(あくまで自分比)。なんで唐突に泣けるか泣けないかの話になるのは謎ではあるけど、この作品のタグラインとして「喪失と希望の物語」だと言われている事、そして物語のあらすじから考えると”泣ける映画!”というイメージが浮かんできそうであるということから少し”映画で泣ける”について思ったところを綴ろうかなと思ったり。

結構多くの映画でも「喪失と希望の物語」と言われる映画や物語は多い。多くの人がマイベスト映画に挙げる『ショーシャンクの空に』とかまさにそんな感じ。そして多くの人に感動を与えている。何か主人公が抱える喪失と、それに向き合って解決したことで生まれる新しい希望。その動きに自分の傷や未来を重ねて観客は感動し落涙し、明日の生きるチカラを得て劇場をあとにする。そしてそれは”泣ける映画”として話題になる。

有る種、泣くという行為を通じたデトックスによって、日々のイライラや理不尽な思いを消化できる時間として”泣ける映画”は求められ続けているわけで、「全米が泣いた!」ではないけども泣けるという宣伝文句は頻繁に使われている。

一方で『ドライブ・マイ・カー』はどうだったかというと、「喪失と希望」というテーマが持つ有る種のステレオタイプだったり、それらのワードがお仕着せる物語の役割を、全ていちから疑い、そしてそれらを丁寧に剥ぎ取っていった作品のように感じられた。何か、”泣く”ことで簡易に喪失に向き合い消化したことにするという”演技”で片付けることを観客に許さず、「喪失と希望」の深淵に向き合わされるそんな印象でした。誰しもが抱える「喪失」に対して、それぞれ何らかの折り合いをつけて前に進んでいる事を演じているけど、それって本当は引きずっているよね?本当に折り合いをつけられてないよね?とでも言われたような気がした。そう、泣く暇がなかった3時間であり、その場で少し泣いて劇場出たら「このあと何食べようかな」とか考える、そんな物語の消費で終われるようなものではない、もっともっと長い時間を掛け、自分の人生と照らし合わせつつ反芻していかなくてはいけない映画だった。

もちろん、本作はもっと多岐に渡る言及が重層的に重なる映画であり、もっともっと言及すべき点はたくさんある。
劇中のチェーホフの芝居で役者ごとに異なる言語で演技を行っていたり(しかもその劇中劇自体がすでに1つの作品とすべき強度を持っていた)といった演出に代表される「言語」もしく「言語と社会」といったもの対する視座だったり、もしくは濱口作品に一貫している「視線」だったり。(「寝ても覚めても」では見つめ合う視線の交差とその混線・変遷、そして並列に至るまでの演出がとても重要であったと思われるが、今回はドライブ中のやりとりやバーでのやりとりなど視線が交差せず並行しているところが多かったが、相互理解を真に醸成するものは本当はどちらなのか、などとても考えさせられる)

その上でもなお、「泣ける映画」の観点について言及したくなったのは、これからの社会に必要なのは『ドライブ・マイ・カー』のような意味での”泣けない”映画だと思ってしまったからだ。

『ハッピーアワー』『東北記録映画三部作』『寝ても覚めても』と311の影響をもしくは言及を続けてきた濱口監督であるが、そういう意味だと本人の意志に関わらず「ドライブ・マイ・カー」も図らずもコロナ禍という社会情勢からの影響は少なからず承けているのではないかと考える。そこに共通するのは、日常や常識の非連続性であったりそこに直面したときの希望への運び方なのかもしれない。インスタントな感動や共感が社会に大きなベネフィットを与えて来た「安定」と「成長」が所与だった時代(それはもしかしたら社会全体で共有できるコモンセンスを獲得していた時代とも言えるかもしれない)から、エコチェンバーの時代へと大きく転換している今、長時間を掛けて自分自身の問題と深く向き合いつづけること、そしてそこに視点を向けさせてくれる『ドライブ・マイ・カー』のような映画が必要だと思った。

僕はどんな役割を演じてしまっているのか

最後に、『ドライブ・マイ・カー』を観ることは、観るものすべてが自分自身のプライベートなモノと照らし合わせることに通じると思いつつ、そこで感じた「僕はどんな役割を演じてしまっているんだろうか」という感覚について少しだけ述べたいと思う。

『ハッピーアワー』でもそうだったが、劇中の演技ワークショップ自体が物語の中に入れ込まれていることで、映画のリアリティーが観るものの肌にまとわりつくのが濱口作品に通底していると思う。『寝ても覚めても』ではワークショップのシーンなどはなかったけども、主演に演技をつける際に、演技や抑揚を一切排除しての台本の棒読みの繰り返しを行っていたという事を記事で読んだ。それによって「言葉」が持つステレオタイプなイメージ、そしてそこから脊髄反射的に表出する演技というものを打破し、演じる役そのものと同期することに通じるということのようだが、まさにそんな光景としか思えないシーンが『ドライブ・マイ・カー』でも登場する。僕は演出家でも演者でもないのでそれ自体に対しての知見や体感は全く持ち合わせていないので何かを語れるわけではないものの、(もしかしたら本職が俳優ではないかもしれない人も含めた)劇中の舞台に出演するキャストが、西島秀俊演じる家福悠介による”棒読みワークショップ”をうけることで、それぞれが劇中劇の中で演じるキャラクターと同期するよすがを得ていくシーンは圧巻の緊張感であると同時に、「演じるということは何か」ということだけでなく「我々観客側も普段の生活の繰り返しの中で、いつのまにかワークショップで脱いでいかなくては行けない”演技”を重ね着しているのではなかろうか」という疑念が立ち上がって来る。
(この劇中でワークショップをしている役者陣は、カメラが回る前にもきっと同じような演技指導があり、その上でこの演技を剥ぎ取る演技をしているのかなとか、そこで獲得した映画の登場人物になった上で、その登場人物が演じる劇中劇の役になるためにワークショップをうけていて・・・とか考えるとその永久機関的迷路に迷いこみそうなので、そこは考えるのはやめました(笑))

まさに物語の終盤では、家福悠介が有る種の”演技”を脱ぎ捨てるシーンがでてくるわけだが、何か自分にも重なるところがあった気がした。本当は過去の傷に折り合いなんかついてないんだけども「社会人」「大人」などという社会的役割とでもいうものを演じざるを得ない我々は、「もう折り合いはついて前に進んでいる」というスタンスを取らざるを得ないことが多い。一方で”インターネッツ”を見るとインフルエンサーとかが自分の傷を見せつけたり、その傷を全面に出してマウンティングしていたり加害的であったりすることが目についてしまい、なおさら「独白」することだったり、折り合いがついていない事象について感情を発露することが、同類の幼稚性や加害性を帯びてしまうのではないかというためらいから、なおさら「社会人」「大人」であろうと、本心を押し殺して社会的役割を演じ続けることがままあると感じている。しかし『ドライブ・マイ・カー』を見て、その延長上にあるもの、そしてそこから方向転換するために必要なものは何なのかが少しわかった気がした。もしかしたら本当に自分に向き合い、役割を演じる”演技”を脱ぎ捨てた上であればそこに幼稚性や加害性は帯びず、むしろ自己受容と相互理解の足がかりになるのかもしれない。よく「自己受容」が「他者信頼」への第一歩だとはいうけれども、『ドライブ・マイ・カー』の物語と同じく転がっていく家福悠介と、家福の愛車を運転するドライバー渡利みさき(三浦透子)の関係に、社会の希望を観た気がした。

『ドライブ・マイ・カー』は観るものすべてが自分自身のプライベートなモノと照らし合わせることだけは間違いないと断言できる、けどもそれだからこそ感想は本当に人それぞれ、集中するところも人それぞれというような懐の深い映画だと思う。是非まずは劇場に見に行って頂きたいと思います。



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