数字は正しい、ただしデータは間違っている。「世界報道自由度ランキング」を批判する
つい先日発表された「世界報道自由度ランキング」で、日本がかなり下位だったことは世論を大きく賑わせました。
ジャーナリストは「政権から報道機関に圧力がある」と言うし、メディアに批判的な方は「記者クラブ制度が悪い」と言うし、あいつが悪い、お前が悪い、みんな誰かを指さしている。何が正しいのかよく分かりません。
筆者自身の経験則で言えば、こうしたランキング自体、そもそも無批判に受け入れてはいけません。「世界人材ランキング」も「都道府県魅力度ランキング」も蓋を開けてみれば「なーんだ、下らない」と言いたくなる代物でした。気持ちは分かるぞ、山本一太。
特に数字だけが先行して走っていることが問題です。このランキングはどのようにして作られたのか、その経緯が分かれば「日本が70位なのも頷ける」「70位という判断はありえない」と私たちも評価できます。
ビジネスの現場でも「数字だけが走る」ことは何度も経験しています。インフラシステムの導入費用が年間1000万と試算されて「これで楽できるわ」と思ったのも束の間、1000万だけが先行してしまい「ちょっと高過ぎる」とちゃぶ台がひっくり返る…みたいな話はビジネスあるある探検隊です。
「世界報道自由度ランキング」の分解を通じて、「あぁ~、こんな感じで数字が走るのか」と体験いただければ幸いです。
世界報道自由度ランキングとは何か?
世界報道自由度ランキング(World Press Freedom Index)は、国境なき記者団が、毎年1回発表しています。WEBサイトはこちらから。
なんでこんなランキング作ってるの?と思うのですが、その理由について以下の通り記載されています。ちなみに、翻訳文は筆者の手によるもので(以降も同じく)、必ずしも正確では無いかもしれません。例えば、indexはランキングと置き換えました。
後半でも触れますが、定義された「報道の自由」を、ジャーナリストやメディアが享受できているかどうかが重要なのです。
ちなみに、freedomは「自由」ですが、libertyも「自由」と訳します。自由民主党は「Liberal Democratic Party」、自由の女神は「statue of liberty」ですからね。
libertyは圧制や抑圧から逃れた状態で得た自由、勝ち取った自由のような意味合いを持つようです。例えば、厳しい校則の中で赤毛の地毛を黒色に染めない自由を英訳するならlibertyが適切なのでしょう。
freedomは肉体的精神的に規制されていない自由、人が本来持って生まれた自由のような意味合いを持つようです。例えば、若者の自由を英訳するならfreedomが適切なのでしょう。若さゆえ~(ザ・ジャガーズ)。
libertyは社会的な文脈であり、freedomは個人的な文脈だと感じました。前者は闘争的であり、後者は奔放的です。広々とした草原を前に、「ここまでは走って良い」と勝ち取ったliberty、一切の制限を無視して自分の好きなように走るfreedom。なんかそんな感じ。
国境なき記者団が「The purpose of the World Press Freedom」としたのは、あくまで対象が「個人および集団としてのジャーナリスト(人間)」だからかな、と推察します。知らんけど。
世界報道自由度ランキングはどのようにして作られたのか?
ランキングの詳細な作り方はこちらのWEBページで紹介されています。
「報道の自由」という数値化し難いものは、メディアやジャーナリストが人質に取られたり、投獄されたり、殺害されたり、行方不明になったりするなど暴力の威嚇・行使に対する定量分析と、報道の自由の専門家(ジャーナリスト、研究者、学者、人権活動家を含む)が回答するアンケートに基づく各国・地域の定性分析の2軸から集計します。
具体的には政治的状況、法的枠組み、経済的状況、社会文化的状況、安全性から構成される5つの文脈指標を使用して0点~100点で評価されます。
1位のノルウェーは91.89点、70位の日本は62.12点でした。実際には、5つの観点で採点が行われ、その平均値で順位が決まります。
日本は、特に社会文化の順位が113位と低いようです。どのような観点で評価しているのか、確認してみましょう。
思い当たる点があるような、あるような、あるような…。
国境なき記者団は、180国全てに対して講評を書き残しています。日本については、社会文化に対して次のように記載しています。
激しい自己検閲…。自主規制ってやつですね。ジャーナリストが報道の自由に自ら制限をかけていることを、国境なき記者団は批判しています。
得点の内訳
180国全体の得点の傾向と、日本の位置を把握するために、5つの指標別に箱ひげ図を作成しました。赤い丸は日本を意味しています。
いずれの指標も、およそ10点~90点に散らばっています。ただし、指標別に見れば顕著な特徴が出ています。
右端の「安全性」は、最大値~75%にあたる髭が顕著に短い。一方で50%の分布(四分位範囲)が1番長いのも特徴です。つまり、すぐにジャーナリストを暗殺とかしちゃうやべぇ国と、さすがに身体的危害は加えない国と二分しているわけです。
左から2番目の「経済的状況」は、50%の分布(四分位範囲)が1番短く、最大値~75%にあたる髭が顕著に長くて一部の外れ値が現れるほどです。つまり、経済とジャーナリズムの区分に成功している国と、一定の制約があって模索している国と、もうまったくあかん国と三分しているわけです。
しかし、こうも傾向が違うと、特定の指標の結果が、全体の順位にも影響を与えることが想定されます。そこで、横軸を5つの指標の順位、縦軸を全体の順位とする散布図を作成しました。見辛い方は画像をクリックすれば拡大されます。スマホでご覧の方は、画像を手で拡大してください。
散らばり具合を可視化するために、回帰直線を引いています。線を基準に考えると、社会文化的状況 & 政治的状況 > 法的枠組み > 経済的状況 > 安全性の順番に開きがあると分かります。
例えば、右端の安全性で順位が142位にも関わらず、その他の指標が40位以内に入っているため、全体で61位にランクインした国があります。そう、ウクライナです。
他にも、右端の安全性で順位が62位にも関わらず、その他の指標が125位以下に入っているため、全体で126位にランクインした国があります。そう、シンガポールです。
特定の指標だけが悪くて(良くて)、全体を押し下げる(上げる)ことは、複数の指標を1つに集約するランキングにおいて宿命ではあります。大学受験だって、複数の科目を受けてその合計点で競いますから。
しかし、このモヤモヤは何だろう。
寿司も京都も忍者も治安の良さもハローキティも並べて全て「合体!」させて「This is 日本!」と言われたような感じ。全然違うんだから、それで評価しちゃいかんだろうと思ってしまう。
経済面では優秀だけど、社会文化面では劣悪、で済ませればいいのに。国境なき記者団はトム・ブラウンの布川に「ダメー!」と頭を叩かれて欲しい。
調査票について
上記に記載された内容は概要ですので、実際に「調査票」を確認したいと思います。先ほど紹介したWEBページの巻末にもありますし、https://rsf.org/sites/default/files/medias/file/2023/05/drive-download-20230502T170908Z-001.zipからもDLできます。DLした圧縮ファイルの中にあるIndex2023_Questionnaire_JP.pdfを選択すれば、確認できます。
日本が数値の低かった社会文化の調査票を見てみましょう。見辛い方は画像をクリックすれば拡大されます。スマホでご覧の方は、画像を手で拡大してください。
市民は、一般的にニュースメディア企業や報道内容の信頼性に強い確信を抱いていますか。風刺画家が、ヘイトキャンペーンの対象になったり、自己検閲を煽られたりしますか。メディアは文化的にデリケートな話題を、大衆から強い反発を招くことなく扱うことができますか…等。
1つ1つの評価は避けますが、それぞれの質問項目に対して「いや~、まぁ、えぇ、う~ん、えへへ…」みたいなリアクションになることを聞きやがるな、とは思いました。
誰がどんな観点で採点しているのか?
この調査票をもとに、報道の自由の専門家(ジャーナリスト、研究者、学者、人権活動家を含む)が日本を採点しているのですが、正直、それって誰やねん?とは思うわけです。
たった1人に依るのか、それとも複数名なのか、日本人だけなのか、多様性があるのか。情報は開示されていません(私が見落としているだけかもしれませんが)。きっと、命の危険すらあるから公開しないのでしょう。
様々なデータを見るに、日本は世界的に見ても「得点が低く出る国」です。したがって、本人は公正に採点を付けているつもりでも、何らかのバイアスが働いている可能性は拭えません。すなわち「あらゆるバイアスから抜け出せて、本当にフラットな評価になってます?」とは思うわけです。
加えて言えば、「社会文化的状況」において「政府や企業が主要メディアの運営に日常的に圧力をかけており、その結果、汚職、セクハラ、健康問題、公害など、センシティブとみなされる可能性のあるテーマについて、激しい自己検閲が行われている」と記載されていましたが、「日常的な圧力」を私は知らないのですが、国境なき記者団は知れたわけで、その情報にどうやってアクセスしたのでしょうか。実は採点者はインナーだったのでしょうか?
このご時世、そうした自主規制こそネット上で直ぐ漏れ伝わるんですが、ネット自体も規制されているんでしょうか。そんなバカな…。それとも、報道されない「闇」があるんでしょうか。あるんでしょうね。
他にも、「安全性」においては、このような質問項目があります。
この項目に関連して、国境なき記者団は次のような講評を述べています。
海外でいわゆるALPS処理水が「treated radioactive water」と表現されているのは知っているのですが、SNSで嫌がらせされているのは「放射能汚染水」すなわち"汚染"という表現ではなかったでしたっけ。違ってたらごめんなさい!
他にも、能登地震の対応の遅れについては、実際には「ごめん、大勢が通れるような道が無いねん」って話じゃなかったでしたっけ。違ってたらごめんなさい!
「あまりに物分かりが良すぎる」というのであれば「すいません」と思うのですが、一方で筆者はナショナリストでは無いけれども「起きている事象に対する解像度が粗過ぎる」と思わざるをえないのです。
解像度の粗い理解での発言すら、周囲が注意することが、自由(Freedom)への侵害になるんでしょうか?
それにしても、政治家が誹謗中傷・名誉棄損などを理由にジャーナリストを訴えた裁判があるんですね…。逆は直ぐに思い浮かぶのですが。パッと頭に浮かんだのは「Dappi」事件でしたが、あれはジャーナリズムじゃ無いと筆者は思っています。
まとめ:報道の自由と責任
これまでの内容から分かる通り、報道の自由(freedom)とは、「行動を束縛する様々な観点からの制約が無い状態」を意味している、と筆者は理解しました。
それは、SNS上でジャーナリストが指摘していた政府・政治家を意味していますし、SNS上でジャーナリストに批判的な方が指摘していた記者クラブ制度や自主規制を意味しています。それだけではなく「the nationalist right」と評される方からSNSや雑誌などで向けられる不信感と敵意をも意味しています。
そして「the nationalist right」とは何をさすのか…その線引きが極めてあいまいだと感じます。ジャーナリストには発言する自由(freedom)があります。しかし、その内容が間違っていれば、それは指摘を受けて当然だと筆者は考えるのですが、国境なき記者団は「自由(freedom)を侵害された」と受け止めているのではないか…と推察します。
もちろん、自由(freedom)は守られるべきです。しかし、「そんなに早く走ってるとコケますよ」と声をかけることすら自由への侵略行為にあたるのであれば、それは「価値観が違う」と言わざるをえません。
「liberty」には対価として自由であることを守る義務が、「freedom」には対価として行動の結果の責任がセットである…と筆者は考えます。たぶん、ここが価値観の違いです。
実際、調査票においては「報道に対する責任」について言及がありません。例えば、報道被害です。先日も、某新聞社で談話が捏造され、関係者が処分される事件が起きました。
つまり、国境なき記者団は、自由(freedom)だけを測っていませんか、と思うのです。公開されている調査票を読む限り、捏造した談話を報道する自由(freedom)と、それは捏造だろうと報道しない自己検閲(自主規制)、明らかに前者が評価されているように読めます。そんなつもりは無いと言うでしょうが。
筆者は、自由とは責任を背負ったものであり、少なくとも制限無き自由は無いと考えます。トマス・ホッブスは個人同士が互いに自然権を行使した結果としての「万人の万人に対する闘争」を解決する手段として「国家」を持ち出しましたが、国境なき記者団は、自然権のみを本当に主張したいんでしょうか? もう1回、歴史をそこから再スタートさせる気なんか…?
最近、私たちは、暴露する自由(freedom)の名の元に、SNS上で「手のひら返しや!」と言って、ついには国会議員になった人を知っています。出馬する自由(freedom)の名の元に、演説している候補の前で大声を出した人をしっています。
自由(freedom)はバランスをとるのが難しい。大平正芳元総理の「楕円の理論」こそが有効な領域だと筆者は考えます。
今回、70位という数字だけが先行して走ってしまいました。70位という数字だけを解釈して、あれが悪い、これが悪いと議論が行われました。
しかし本来なら、報道機関も、ジャーナリストが嫌いな人も、そもそも「自由」を国境なき記者団はどう考えているか、その定義は正しいかについて、議論すべきだったのではないでしょうか。
筆者は、本件についてジャーナリズムに対する冷笑主義的スタンスには立ちません。そもそも、ジャーナリズムよく分かんない。ただ、あくまでデータサイエンティストとして、言葉の定義にこだわる立場に立ちます。
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冒頭、筆者は「このランキングはどのようにして作られたのか、その経緯が分かれば「日本が70位なのも頷ける」「70位という判断はありえない」と私たちも評価できます」と記載しました。
なるほど、日本は62.12点という数字自体は合っているのでしょう。しかし、データとしてはそもそも自由(freedom)の意味が間違っているのではないでしょうか。自由(freedom)ってそういうことでしたっけ?
一方で、自由とは善悪で判断するものでもありません。悪の自由もあるんだろうなと思っています。そこで、私からは「World Press Freedom Index」だけでなく「World Press "Liberty" Index」も作ったら?と提案をさせていただき、このnoteを終了いたします。ご清聴ありがとうございました。
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