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なぜ「三方良し」に、近代化が必要なのか?

コロナ危機を経て、株主利益至上の立場を取る資本主義は、いよいよ旗色が悪い。短期的利益の追求が、貧富の格差を広げ、人間社会のみならず地球環境へも大きな悪影響をおよぼしたという主張が、政治でもビジネス界でも市民権を得たと言える。

ゆえに、2015年SDGsが国連で採択され、投資家や経営者にとってESGが大きく意識されることになった。このとき、社会を含めたステークホルダーを重視するという文脈で、近江商人「三方良し」の精神が、和製ESG概念として持ち出されることが多い。特に近江商人をルーツとせずとも「三方良し」に親しんだ日本企業は、昔からESGをやっとる、何を今さら・・・という論調さえ見られる。

しかし、残念ながら、現代の日本企業が、特に業績を伸ばしつつESGで秀でているという印象はない。実際、世界企業を対象とする2019年ROESGランキングの日本企業トップは56位である。

では、「三方良し」を唱えて、精神論に安心することの盲点は何だろうか?

まず、「三方」を問いたい。元の定義は、売り手・買い手・世間だ。近江商人は株式会社ではなかったから、「株主」が含まれないことは自然だが、今の日本企業では、株主に帰属する利益を無視することはできない。もちろん、長期的な継続性のために、株主以外のステークホルダーに配慮することは必要だ。しかし、株主を軽視した経営に陥っては、コーポレートガバナンスの歩みが退化する。

「三方」に「従業員」が明示的には含まれないことにも、注意が必要だ。広くは「世間(社会)」、ESGのS(Society)に含まれると考えることもできるが、実際は日本企業の労働分配率は下がり続け、人材育成投資は乏しい。

やる気と才能のある従業員が企業の「見えない資産」を下支えすることは明らか。かつ、SNSの時代、消費者と同様に従業員個人の発言は瞬時に拡散し、企業の評判を左右する。ゆえに、従業員を重視した経営は、今までにまして、理に適う。

次に「三方」を近視眼にしないことが大切だ。近江商人の時代ならばともかく、いまはサプライチェーンがグローバルに張り巡らされている。自社の「売り手」のそのまた上流の「売り手」たちに及んでも、人権問題が問われる。「三方」は、「遠方まで良し」とならないと、現代のESGには匹敵しない。

実は、近視眼的な「三方良し」の弊害は、「買い手」への意識にも見られる。B2B企業であればなおさら、自分の対面となる、顔の見える顧客へは絶対服従する一方、その先、すなわち「買い手」の「買い手」は見ようとしない傾向がある。

もし時代が平たんで、ビジネスモデルの変化が少ない時代であれば、それでも通用しただろう。しかし、技術革新が日進月歩の現代、近視眼的な「三方良し」にとらわれることは、イノベーションの機会を逸することにつながる。

これが、「三方良し」精神論がもたらす最大のリスクと言える。目の前の顧客やサプライヤーに気を遣うあまり、ビジネスモデルをがらりと変える―顧客を中抜きしたり、サプライヤーの仕事を奪ったりするかもしれない―ことに、心理的な抵抗が大きい。「三方良し」の優等生であろうとするあまり、自縄自縛に陥るとは、皮肉なことだ。

他方、創造的破壊を成し遂げた企業は、「三方良し」をないがしろにするわけではない。むしろ、彼らは新しい生態系を作り、その中で改めて「三方良し」を実現していると言える。その新陳代謝があってこそ、経済に活気が生まれる。

自己中心に陥らない、「三方良し」の精神は、決して否定されるものではない。しかし、それを精神安定剤とせず、盲点に意識を向けることが大切だ。

「三方」とは何か?十分「遠方」に及んでいるか?「三方」にとらわれるあまり、自己変革の機会を逸していないか?これらを自問自答することで、「三方良し」が近代化し、さらに自社の状況へカスタマイズされる。初めて日本企業のESGが自分のものとなると考える。

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