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カルチャーは暴力である、と考えてみる。

Mr.Childrenといえば「国民的ロックバンド」だが、その歌詞は意外と過激だったりする。

初期はこんな歌詞も当たり前だったし、

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かつての代表曲だって、友人の恋人を寝とる話だし、

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今なら炎上しそうなフレーズの曲だってある。

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これらの歌詞に登場するような、

・自分勝手で
・浮気も不倫も当たり前で
・女性に対するステレオタイプを助長する

そんな主人公を描くバンドを「国民的」と呼ぶのはおかしい。

なんて議論は、聞いたことがない。
だからMr.Childrenはすごい。

浮気や不倫を毛嫌いする人も虜にしてしまう。

この力はなんだろう。


そんなことを考えていたら「カルチャーの暴力性」にたどり着いた。


今日はそんな話。

■黒を白に変える力

彼氏の浮気なんて微塵も許さなそうな友人のYさん(女性)は、大のミスチル好きだ。
妻が不倫したら膝から崩れ落ちそうな同僚のMさん(男性)も、大のミスチル好きだ。

そんな2人に、ミスチルの歌詞について聞いてみた。

「例えば『名もなき詩』とか、浮気とか不倫を開き直ってるけど、これは(Yさん・Mさん)的にいいの?」と

成り行きまかせの恋におち
時には誰かを傷つけたとしても、その度心いためる様な時代じゃない

名もなき詩

彼らは「わかってねぇな」と言わんばかりの怪訝な顔で答えてくれた。

返答を要約すると「確かに歌詞はゲスいけど、それがミスチルの魅力でもある。何より曲がいいし、櫻井さん歌えば、なおいい。」という内容だった。

構造にするとこんな感じだろうか。

甘いメロディーに包まれたゲスな歌詞の図

彼らとして、歌詞の内容や行動自体は(プライベートなら)許せない。

ただそれが桜井さんのビジュアル・声・メロディーに包まれて、最終的に「アリ」として認識される。

歌い手のビジュアルや声、メロディーが「演出」だとすると、演出の力は恐ろしい。(と言うか、桜井さんが恐ろしい)

黒を白に変えることだってできるのだから。

行動はNGだけど、演出次第でOKに替わる図

YさんやMさんの意見は一部のミスチルファンの発言であって、すべてではないと思ってます。ミスチルファンの方、怒らないでください。

■強過ぎるカルチャーの力

演出の力が作用するのは、音楽だけではない。

僕のいる広告の世界では、
・What to say(何を言うか)
・How to say(どう言うか)

という考え方があり、このHow to sayには演出が詰まっている。

クライアントによってWhat to say(何を言うか)が決まっている場合、

広告はそこからHow to say(どう言うか)を考える。

・どんなタレントで伝えるか
・どんなコピーで伝えるか
・どんな音楽や映像で伝えるか

こうした演出によって、What to sayを最大化・最適化させようと試みる。

その際に活用するのが、タレントや音楽、映像、つまり「カルチャーの力」だ。

カルチャーの力は強い。

それは時に「強過ぎる」こともある。

「CMで(曲名)を流しておけば、全部それっぽくなる」なんて表現されることもあるくらいだ。

僕は最近、このカルチャーの暴力性について考えている。

■カルチャーの暴力によって刻まれた傷

カルチャーの暴力性の弊害例として挙げられるのが「シンデレラコンプレックス」だ。

シンデレラコンプレックスとは、

・今は苦労していても
・いつか理想の男性が現れて
・幸せにしてくれるのを
・待ってしまう
・他人任せで
・自立を阻む潜在心理のこと。

もちろん由来はグリム童話の「シンデレラ」だ。

大人がシンデレラを観ても「そんなことは現実にないけどね」とツッコむが、まだ人生経験が乏しい子どもたちならどうだろう。

話の内容だけを伝えてもピンと来ないだろうが、

・魔法使い
・カボチャの馬車
・ガラスの靴

などの演出要素を加えて、キャッチーな音楽美しい映像を携えて情緒的に伝えればどうだろう。

シンデレラ的な人生観は、子供たちに刷り込まれていくだろう。

事実、ウォルトディズニーによる映画「シンデレラ」は、ディズニー初期の名作として広く知られているし、「シンデレラ城」は今も夢の国のシンボルだ。

私たちは本来、どこかのタイミングでシンデレラを「ファンタジー」として切り離し、夢から醒め、自分の足で歩き出さなければいけない。

しかしカルチャーの暴力によって刻まれた傷が癒えないケースもある。

これらの影響が、シンデレラコンプレックスの事象を生み出す。

■暴力性の自覚が業界を強くする

2016年の研究によると、73%のディズニー映画は女性より男性のセリフの方が多いことがわかっている。女性が主役の「ムーラン」でさえ、セリフの数では男性がリードしていると言う。

もちろん、全ての映画で男女のセリフ量を揃えるべきだ、なんて主張をするつもりはない。

しかし「物語をリードするは男性」という潜在意識が、ディズニーの影響力を武器の一端にして浸透してきたことも否定できないだろう。

いわずもがな、カルチャーは自由だから面白い。

ただ、だからこそ、映画業界も音楽業界も、もちろん広告業界もこの「カルチャーの力」を改めて自覚する必要がある。

近年、カルチャーの世界では、若い世代を中心に無意識のジェンダーギャップについて考える動きも加速している。

自分たちの発信には、暴力的な側面がある。

その力を使って、何を伝えるべきか、どう伝えるべきか。

その意識が今後より一層、カルチャーを面白くしていくのだと思う。


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