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宮崎駿の「君たちはどう生きる」の感想:アーティストの視点から

宮崎駿の映画をほぼ全て観てきた一ファンとして、今回の感想を述べさせていただければと。
映画の感想や批評は既にたくさん出ているし、宮崎駿の超ファンの方々に比べると、僕のファン度は恐縮すぎますが、僕はアーティスト側の視点で言えればと思ってます。

映画「君たちはどう生きる」:アートとしての視点


まず、「君たちはどう生きる」は単なるエンタメではなく、アートと言える作品だった。この作品は、一人ひとりの視聴者がそれぞれの解釈をする余地、つまり「余白」が存在していた。
それは、視聴者がそれぞれの感情や思考を投影できる空間を意味していて、これはエンタメのようなある種の予定調和や、観客が期待する世界を無視して、映画という表現方法を通じて、宮崎自身をしていると感じた。

この「余白」は、視聴者自身が映画に投影することで生き生きとし、そして個々の解釈や思考を生み出す。それぞれの視点からの解釈が重なり合い、一つの映画から無数の物語が生まれる。これこそがアートの面白さであり、宮崎駿が今回の作品で手放したわかりやすさがもたらした良い部分と思われる。

映画と映画監督の関係性

作品には、その作家自身が作品に含まれている要素の全てを認識し、表現していると思う人もいるかもしれません。しかし、この映画は、宮崎駿自身が完全に認識できていない形をそのまま出すことで、カオスな状態を生み出しています。これはエンタメの場合、その理解不能な部分はできるだけ排除し、観客に心地良い場所を提供しようとするものですが、この映画にはその要素がほとんど見受けられません。宮崎駿自身が試写上映後に「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」と言ったように、この作品には意図しない余白が多くあることを示しています。

映画と監督の未来についての考察

この映画は宮崎駿の引退作と言われていましたし、私僕も観終わった後は、宮崎駿の生前葬だと感じました。しかし、時間を置いて映画に含まれていた違和感について考えてみると、今まで理解できる作品を作ってきた宮崎駿が、晩年に至って理解不能な作品を作ったことは、新たな何かを始めるという意思表示でもあると感じます。

映画の製作とその評価

映画製作の観点から見ると、映画中にはこれまでの宮崎駿映画を思わせる描写が散見されますが、それらが新作との文脈で完璧にミスマッチしています。それはまるで取り外して貼り付けたような感じで、1つの映画としての完成度は低いように見えました。

もし自分がこの映画を作るとなった場合、同じ作品を作り続けるアーティストからすると、この作品を最後に引退することなど絶対にしたくないと思います。そして、この映画の制作が過去の自分との決別の意味を持つなら、是非とも制作に挑みたいと思います。これが、広告も出さずに展開したのではないかと考えさせられます。

新生「宮﨑駿」への期待

最後に、この映画の興行収入は、公開4日間で興行収入が21億4000万円を突破し、宮崎監督作品としては、2001年公開の「千と千尋の神隠し」の初動4日間の興行収入を超え、2013年公開の「風立ちぬ」の150%超えとなるなど好スタートを切ってると思うけど、ある種のアートは大衆には受け入れがたく、100億を超える事はないんじゃないかなと思ってます。

これまでのスタートダッシュは、もう神と化した宮崎駿が製作した映画だから無条件で観に行くといった人が大半だったんじゃないかなとおもいます。
もしこれで超える事があるなら、日本人もちゃんと映画を観れるようになったんかなーって思うと思います。

しかし、この映画の中で僕自身が勝手に感じた、宮崎駿が過去の自分との決別としてのケジメの映画と考えると、これからは宮崎駿ではなく、新生「宮﨑駿」となって、これからガンガン映画を数年単位で作ってくれる期待を込めて、この感想を締めくくりたいと思います。

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