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「ダイバーシティとはなにか?」 〜起業家の僕がアート思考ワークショップで学んだこと。

以前こちらのイベントでも登壇いただいた、西村真里子さんのお誘いで、6/22-24の3日間、ART THINKING IMPROBABLE WORKSHOP(以下ATIW)を参加者として体験してきました。今回は藤幡先生も講義に登場する特別バージョン!ということでもうこの講義が「学び尊い・・・」となりましたよね。

AITWはビジネスパーソンがチームとして3日間でアート作品をつくりあげる、というプログラムです。(今回はMicrosoftさんがスポンサー)

詳しくは、西村さんのこちらの記事をどうぞ。

実際にアートワーク制作を体験して感じたことを書きとめておこうと思います。


ダイバーシティ/インクルージョン?

ATIWの特徴はチームでクリエーションをする、ということです。初めて出会う方とチームが組まれ、チームごとにテーマが与えられます。僕らのチームは「ダイバーシティ/インクルージョン」というテーマでした。

初日、まずGFTD WORKS さんという発達障害者向けのプログラミング教育・就労支援をしている企業にヒアリングする、というアクティビティから始まりました。GFTD WORKSさんはADHDやアスペルガーなど、発達障害をお持ちの方にプログラミングやCG制作のスキルを教え、就職の支援を行います。時には面接に一緒にスタッフの方が行かれることもあるそうです。

創業者が実際に発達障害をお持ちだったため親切で実践的なサポートを提供されているのですが、チームからの質問にもスタッフの方は親切に答えてくれました。利用者がどんな困難を抱えているのか、就労するためにどういう支援が必要か、などなど。そしてインタビューを経て僕たちの心に残ったことは、ダイバーシティの難しさでした。

たとえばGFTD WORKSさんでは障害者枠ではなく一般枠で就職することを支援するため、そもそも週5回、10時ー17時の定時に通えることが条件となっています。発達障害の方は決まった時間に通ったり、混んだ電車で通うことが難しいケースもありますが、残念ながらこの定期通所ができない方は利用することができません。また「障害者」の支援施設であるため、発達障害の確定診断が出ていないグレーゾーンの方も利用することはできません。

僕たちはその話を聞いて一つのジレンマについて考えることになりました。それは”ダイバーシティ=みんなを受け入れる”ことではない、ということです。ある人を支援するということは、支援”できない”人もいる

ダイバーシティのための標準化。インクルージョンのための選抜。

このジレンマはある種、「ダイバーシティ」そのものが背負ったジレンマだと感じました。たとえばGFTD WORKSさんの場合、「発達障害者の一般就労支援」が目的なので、障害認定されていない方や一般就労がそもそも難しい方はその対象することはできないのです。こういった条件があることはダイバーシティに反するようにも思えますが、実際にGFTD WORKSの支援を受けて企業に就職できた方は沢山いて、それを実現できているのはむしろこの条件があるからこそなのです。

「平等」と「公平」がちがうように、ダイバーシティやインクルージョンというのは誰もを同じように扱うことではありません。だからこそダイバーシティは決して簡単なことではなく、現実的な条件づけを丁寧に設計していくことでなければならない。


度重なるピボットを経て

ATIWは「貢献」「逸脱」「破壊」「漂流」「対話」「出展」という6つのプロセスに沿って進められます。この間、アーティストの長谷川愛さんや高橋裕幸さん、運営の西村さん、飯田さやかさんから沢山のインプットやフィードバックを受けつつ、チームで作品を練っていきます。この間、作品の方向性は何度も大きく変わりました。途中実に色んな作品のアイディアが出ました。

・ダイバーシティを推進するために「健常者と障害者の婚姻を義務付ける法律」がもしできたら?という仮想世界の婚姻届
・ダイバーシティのために男/女だけでなく何十種類もの入口が分かれたトイレがずらりと並ぶ『みんなのトイレ』
・「◯◯禁止」や「◯◯専用車」の張り紙がある『みんなの電車』

チームが作品に込めたかったのは「ダイバーシティのために全てを受け入れよう」という”善いメッセージ”ではなく、「ダイバーシティを本気で考えると、同時にある種の分離や区別のことを考えなければならない」という葛藤そのものでした。

たとえば「女性専用車」についても、本来的にはそんな区別なく安心して一緒に乗れる社会が理想ですが、現実にはそれがあるから女性が安心して電車に乗れる面もあります。「喫煙ルーム」も喫煙者からすると排除や制限のようにも思えますが、そのおかげで分煙でき、共存が可能になる。「みんなの」ということを考えるとき、必ずしも一つの場所・一つのルールにまとめればいいというわけではない。それぞれの人が快適に過ごせたり色んな人をempowerするためには、棲み分けも必要になる。

何度も議論しエスキスを重ね、この葛藤に立ち戻りながら作品を考えていきました。


『みんなの場所』

最終的に我々のチームが作った作品は、『みんなの場所』というものです。

誰でも入れる場所に簡単にロープで仕切りをし、そこを『みんなの場所』と名付けました。その空間の周囲には、上からテグスでたくさんのプレートが吊るされていて、「未就学児お断り」や「タトゥーお断り」など、禁止のサインがプリントされています。中には「巨人ファンお断り」のようなものから「車椅子の方お断り」、そして「◯◯人お断り」のような差別に近いようなものもあるのですが、これらのサインは実はインターネットで見つけた実在のもので、実際に飲食店や公園のような公共の場所に掲げられているものです。

これらの立ち入り禁止のサインは結界のようでもあり、排除の壁にも見えます。(実際最初のうち観客の方はなかなかこのエリアに入ろうとしませえんでした。)しかし一方でこれの禁止のサインは、その場所の快適性や安全性、そして利用者をまもる「思いやり」でもあるのです。

我々は実は、日々たくさんの「禁止のサイン」に囲まれて暮らしています。たとえばまさに「みんなの場所」である公園は、安全のためにどんどん禁止事項が増え、自由度が失われてしまっていたりします。

しかし、じゃあ禁止をなくせばいいか、というとそんな簡単な問題でもありません。自由の方がいいですし、差別はいけません。ダイバーシティ的にはタトゥーもホームレスも全て受け入れるべきでしょう。しかし一般論としてそう言えても、実際に自分の子が遊ぶ場所を想像すればどうしてもそこに葛藤が生まれるのではないでしょうか。極めて良識的でどちらかといえばリベラルな人が、自宅の隣に火葬場や幼稚園ができると知ると激昂し頑として反対するようなことは割にある気がします。


ワークショップの最中、diverseの対義語ってなんだろうね、という議論がありました。di-verseというのは「別々に・向ける」ということですこの反対はなんでしょうか

uni-verseという言葉があります。これは「一つに・向ける」ということです。universeとはユニバーサル、すなわち「普遍」であり「みんなにとっての」ということでもあります。これは「多様」=diverseと背反するのでしょうか、それとも同じことなのでしょうか。「みんなの場所でしょ!」という理由で電車の中で子連れのママを非難することは、universalな行為なのでしょうか?

大事なのは、自分が安全な立場にいる時だけ「ダイバーシティ最高!」とか「みんなのため」とか気易くいうことではなく、他者を受け入れる、というある種の抵抗を自分ごととして考え、都度葛藤やジレンマを引き受けていこうとする動的なプロセスなのではないでしょうか。本来あるべきダイバーシティとはそのようなものなのではないか、それがアートワークをつくる過程で僕たちがいきついた、一つの考えです。


アート制作のワークショップに参加して

①アート制作は高速な「リーンスタートアップ」体験

今回、アート制作のワークショップに参加してみて、アート制作はかなり「スタートアップ」的なプロセスである、という実感を得たことが改めての発見でした。

あるコンセプトを考え、手を動かしながらアウトプットし、またアウトプットしてみてそれに触発され新たな着想を得て形が変わっていく。

途中、エフェクチュエーション理論についても解説がありましたが、作品創作は実際起業家の思考や行動様式にかなり近いものです。

先ほど述べたように僕らのチームも3日間に大きなピボットを何度もしました。今回のワークショップでは大企業からの参加者も多かったのですが、日々の仕事がここまでアジャイルに進むことは少ないと思うので企業人には特に刺激になるのではないかと感じました。

またこのようなアジャイル性はデザイン思考の「アイディエーション」と「プロトタイピング」にもあるように思えますが、「誰かのための課題解決」ではない点がやはり大きな違いだと感じました。デザインとは違い、アートは自分たちの中にしか答えを探すことができず、またその表現方法はゼロベースで無限にあります。故に途中で0からやり直しになることも多いですし、なんというか、発散→収束で段階的に「積み上がっていく」度合いがより低いのです。

さらに、藤幡先生の講義にあったようにアートのプロセスでは「常識」や「因果律」すら疑問に付されることになります。これは足元の地盤ごとなくなるような、依拠するもののない不安定な過程です。その不安定さの中で、「偶然」や「事故」に触発され漂流しながら、ある時突然、作品が「産まれる」感じがあります。それは計画的にできず、自分自身にすらアンコントローラブルです。


②表現強度の寸止め

また、いろいろなアイディアの中から表現の強度を選び取る、ということの難しさも学びました。

これは特に、伴走してくれたアーティストの長谷川愛さんから学んだことなのですが、自分たちとしてはダイバーシティに関する葛藤をあぶり出したい、とおもったとしても、観る人にとって差別を肯定しているように見えたり、そこで扱われた当事者がみて傷つくようなことがあってはいけない、という指摘を何度かいただきました。

AITWに「逸脱」や「破壊」というプロセスがあるように、アートは穏当な表現だけしてしまうと誰も足を止めてくれません。ある程度「はっ」とするところがないと人に刺さったり届いたりしない。なので強度は必要です。

しかし一方、それが棘をもつ、ということも理解しておかなければなりません。過激であればいい、というのはただの露悪的なポルノか、「表現の自由」を借りた暴力にしかなりません

アートは一義的ではなく多義的であり、鑑賞者に委ねられる部分も多い。だからこそ「表現の棘」に作者は責任を持たなければならないのです。

スタートアップもまた、従来の常識や制度に挑戦することなくしてイノベーションを起こすことはできません。そこにはある種の棘があります。ですが、それはただのルール違反や保守批判ではいけませんし、バズやグロースのために人を傷つけていいものでもありません。想像力と社会へのリスペクト、愛とそして自らの責任をもって、どこまで攻めるべきかを見極める、ということもアート制作から学ぶべきことかもしれません。


③葛藤にセンシティブになる

そして、もしかするとこれが最も重要なこともしれないのですが、アート制作を通じて、自分たちのなかにある「葛藤」を見つけ出し、それについて掘り下げる、という経験をすることに意味があると思います。なにかそれでスキルがつく、というよりもそういう経験をすることで社会に対してのセンシティビティがあがるのです。

今回の我々の作品も、アート作品としてのクオリティはまだまだでしょう。また、この経験を経て「ダイバーシティ/インクルージョン」について明快な解が得られたか、というとそうではありません。しかし、何度もエスキスを重ねながら、簡単には答えの出ない「ダイバーシティ/インクルージョン」の葛藤を丁寧に追っていった「体験」は内化され、日々の生活への感性を磨く訓練となったと感じます。

イノベーションとは社会の変化の要請や萌芽を人に先んじて掴まなければなりません。そういった意味で社会の葛藤へのセンシティビティを鍛えることは今後さらに必要とされてくるでしょう。

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