法律や裁判所は「キャリア」をどう位置付けているか
人生100年時代の到来により働く期間が長期化する中で、「キャリア自律」だとか「個々人のキャリアの尊重」という言葉をよく耳にするようになり「キャリア」の重要性が増しています。
私も、経産省の人材室(当時)にいた頃は、まさに政策的観点から「個々人のキャリア自律を促す」といったことを色々なところで話してきました。
ところで、この「キャリア」というものを法律や裁判所はどうみているのでしょうか。
結論を先に出してしまうと、法的観点からまだ固まった考え方はないのですが、自論も踏まえつつ、今回は、政策面から離れて法的観点から見た「キャリア」について考えてみたいと思います。
有名なのは「キャリア権」の議論
労働法の世界でも「キャリアを法的に位置づける」という試みはなされております(関心のある方は諏訪教授の論文等をご欄下さい。)。
ちょっと荒い整理ですが、「キャリア権」を確立し、個人が人生を通じて職業キャリアを展開する権利を法的に認めるべきではないかという議論です。
「キャリア権」という言葉ではありませんが、この考え方自体は、職業能力開発促進法の基本理念に表れているといわれています。
この法律で面白いのは、労働者にもまた以下のような定めがあるところでしょう。
以上のように、法律的には、何らか具体的な請求権にむずびついているかはともかく、理念的には「キャリア」に関する考え方が明文化されているといえます。
裁判所は「キャリア」をどう捉えているか
就労請求権とキャリア権
さて、それでは裁判所はどうでしょうか。
労使紛争の解決指針として「キャリア」という考え方が考慮されることはあるでしょうか。
まず典型的に問題になるのは、「就労請求権」との関係です。
すなわち、労働者は「働かせてださい」という権利を持ち、使用者は働かせる義務を負うかが問題になったことがあります。
学説上は、まさにキャリア権の観点からこれを肯定するべきという見解も示されています。
しかしながら、裁判所は、原則として「就労請求権」を認めていません(読売新聞社事件・東京高決昭和33年8月2日)。
キャリア形成に言及した事例
他方で、最近の事例で、まさにこの「キャリア」への配慮を理由とした判断を行った裁判例として、アメリカンエキスプレス事件(東京高判令和5年4月27日)があります。
細かい解説は致しませんが、この事件では、個人営業部のチームリーダーとして勤務していた方が、妊娠、出産、育児休業等を経て復帰した後、チームリーダーの職を解かれたが均等法9条等に定める妊娠等を理由とする不利益処分だとして争った事案です。
この事案では、賃金の減額はなかったものの、裁判所は、「業務の内容面において質が著しく低下し、将来のキャリア形成に影響を及ぼしかねないものについては、不利な影響をもたらす処遇にあたる」として、違法としました。
この判断の当否は議論もあり得るところだと思いますが、それはさておき、東京高裁がはっきりと「キャリア形成」に言及し、しかも会社側は負かしたものとして面白い事例といえます。
人事異動との関係
その他、配置転換の権利濫用の問題として、キャリア形成への利益を考慮すべきという議論もあります。
やはり労働契約をどうするかが問題ではないか
さて、労働関係法令上もキャリア形成の利益やキャリア権の考え方は入れ込まれてきていますし、裁判例においてもこの点に言及する事例は出てきています。
しかしながら、やはり「キャリア」という概念が未だ曖昧であることから、これをもって一定の法的規範を導くことは困難でしょう(その意味でもアメリカンエキスプレス事件は面白い事案です。)。
その他、個人的に思うのは、「キャリア」概念の曖昧さだけでなく、それが「誰に帰属するのか」、「誰が形成していくべきものか」という点も重要でしょう。
理念的にはやはり個々人に「キャリア(権)」が帰属しているのでしょうが、そう考えた場合、何故会社がそれに配慮しなければならないのかが検証されるべきでしょう。
「キャリア」を法的に位置づけるとして場合に、やはり一番手っ取り早いのは、キャリア意識が高まっていき、労働契約において職務内容や配置転換の範囲などを明確に定めていくことがだろうと思います。
職務無限定で広範な人事権に服する日本企業の労働者は、いわば「どんな仕事でもする」という契約になっており、いわば自らが持つ「キャリア(権)」を会社に渡しているともいえるでしょう。
徐々のこの点の考え方が変わってくることを期待したいところです。