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「確信らしき誤解」に振り回されないためにー「ここにいる」大切さ。

人工知能が人を衰退させるか?という議論が盛り上がっています。

40億年前に誕生した生命は、栄華と衰退を繰り返してきた。6600万年前の恐竜絶滅を経て、30万年前に姿を現したホモ・サピエンスが地上の覇者となった。だが人類がいま直面するのは、ヒトの能力をはるかに超えて地球の命運を揺るがすテクノロジーの奔流だ。

親切なAIは人を衰退させるか 「人新世」終わらせる技術

一方、先週末、民間軍事会社ワグネルによるロシア国内での反乱にメディアが注目しました。よく分からない情報や憶測がさまざまに飛び交い、「現場で知ること」の重要さを改めて認識させられます。

プーチン体制の「終わりの始まり」につながる可能性のある今回の事変。20世紀初頭のロシア革命、あるいはソ連末期のクーデターと異なるのは、欧州にもロシアにも高揚感がほとんどないことだ。

「プーチン氏と(ワグネルを率いる)プリゴジン氏がともに戦争犯罪人であることを忘れてはならない」。ヤツェニュク氏は手厳しい。別の欧州政界の重鎮は私の取材にプーチン氏を「ソファに座っているテロリスト」、プリゴジン氏は「戦場にいるテロリスト」と表現した

ワグネルに触発され、ロシア国民が蜂起することへの期待感は当初からなかった。それでもプーチン氏は身内の離反に戸惑い、対応が後手に回っているフシがある。来春のロシア大統領選に向け、次の反乱があるとの噂も飛び交う。

岐路に立つロシア、和平か混迷か ワグネル反乱

上記はまったく異なる種類の記事ですが、ぼくは一つのことを想起しました。日本語版を準備しているソーシャルイノベーションの第一人者、エツィオ・マンズィーニによる『Livable proximity ; ideas for the city that cares』(Egea 2022)のために、彼に書いてもらった日本の読者へのメッセージの内容です。

これと深く絡んでくるからです。たまたま下訳を公開したばかりなので、なおさら、2つのニュースが頭のなかで交差しました。

「ここにいる」ことの重要性

人工知能が人間の能力を超えるかどうかとの議論はここではさておき、マンズィーニは人工知能の著しい台頭を前にして、次のような指摘をしています。

テクノロジーによってあらゆるものが媒介されることで、何が本当で何が本当でないかを判断するのがますます難しくなる世界では「いること」、つまり、どのような時であっても自分の身体が存在する場所で判断することが唯一の方法となるだろう。即ち、デジタルの世界であれやこれやと気をそらされないようにして、その瞬間、その場所で、心と体を使って注意を払い、応対できるようにしておくことだ。「対面」、というわけである。

エツィオ・マンズィーニの著書の「日本語版読書へのメッセージ」下訳を公開。

テクノロジーによって物理的距離がつくる障壁を超えられ、少ない時間で移動ができ、または移動をしなくても交信ができるといった恩恵を人類は多大に受けてきました。特に、後者、その場にいなくてもその場で起こっていることが分かる、との部分を享受することで得られるメリットには、ぼく自身も感謝しています。

ただし、「分かった気になる」との部分が肥大化していることを自分でも感じます。かつてのプロのジャーナリストによる選ばれた題材と深い取材に基づいた記事に加え、一般の市民による数多の写真や動画を含むソーシャルメディアへの投稿には、「自分もそこにいる気にさせる」のです。

だから、それは身体性を伴わないがゆえに、もしかしたらそこにある強烈に嫌な匂いを嗅ぐことなく、あることにとても共感が増したりします。例えば、非常に貧しい国のスラム街に対しても頭だけで理解してしまう可能性が高く、「自分の頭と心から分かろうとする」方針から外れる・・・が、それに自身で気が付かないのです。つまり、「確信らしき誤解」に自分が振り回される羽目に陥ります

マンズィーニはテクノロジーを介した間接的な接触を減らせと言っているのではなくー無駄な接触は無益だけどー、間接的な接触がいや応なしに増えるからこそ、積極的な方策として身体性のある直接的な接触を意識せよ、と語っているのです。

リアルな情報はなかなか入手できない

言うまでもなく、どこかの国のリアルな情報を得るのは易しいことではありません。そこの国の言葉を知り、その言葉の背景を知らない身にとって、厳しい。

今のような、情報が複雑に交錯するロシアでなくても容易ではないですが、ここで肝心な点は、ある状況をリアルに捉えるに、どの程度の数の視点とレイヤーの理解が要されるかに関する勘を養える経験を持ち得るか?です。

インテリジェンスは9割のメディアなどの公開情報から状況を読み解くとの言い伝えに沿えば、9割の公開情報から想定できるような1割のインフォーマル情報と経験が要されることになります。

さまざまな経験を重ねれば、最後の一歩のところで信頼していた人に寝返りされるとか、暗転の可能性があるのが分かってきます。逆に、まったく信用できないと思っていた人が実は熱くサポートしてくれる場合もあるのを知ります。これは特定の人の特定のケースにあるのではなく、人類の全員がおかれている生きるための条件です。

とするならば、できるだけ媒介を減らしたところで、つまりは「その瞬間、その場所で、心と体を使って注意を払い、応対できるようにしておくことだ。「対面」、というわけである」で1割の確実性をあげるしかないのです。

岐路に立つロシア、和平か混迷か ワグネル反乱」を書いている赤川省吾さんは、この引用した記事のなかでも「高揚感」や「期待感」という言葉を使っていますが、このような言葉の正確さ、あるいは高い信頼性は、現場でしか確認できません(20世紀はじめのロシア革命について「高揚感」と表現するのは、多くの資料によりますが)。

しかしながら、現場にいることはスキルではない

「現場に足を運べ」というと、古臭い教訓やスキルというカテゴリーの表現として受け取る人もいるかもしれません。確かにインターネット以降の世の中の潮流では「現場はネットのなかにある」とも言われ、身体性のある世界は心の問題など、ある一定の事柄や分野との関係で重視される傾向にもあります。

しかしながら、あまりにバーチャルな世界に重心が置かれるがゆえに、前述したように、その逆への意識的な動きがどうしても必要になってきているのです。ノスタルジーの表出と認識したら、大きなミスを招くことになります。このことを示唆するのが、先週末のロシアの一件ーまだ終了しておらず、これからの展開に注視しないとわかりませんがーであったのです。

マンズィーニは戦争の特質についても以下で触れています。良ければ、目を通してみてください。

冒頭の写真©Ken Anzai


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