岸田首相に期待したい 本質的な変容を導く「聴き切る力」のリーダーシップを
(Photo by Volodymyr Hryshchenko on Unsplash)
行政が市民の声を「聞く」ための機会は、年々増えている。しかし、政治や行政は市民の声をほんとうに聞いているのだろうか。聞くことで、本質的な変化を起こそうという意図を持っているのだろうか。「聞くこと」の本質を問いたい。
形だけのパブリックコメント
行政が「聞く」ということで公式に行っていることが、パブコメである。自分たちの計画を公開し、一定期間、市民からの意見を求める。そして、一つひとつの意見に対して、回答を発表するというものだ。
残念ながら、パブコメが計画に反映されるとしたら、「文言レベル」にとどまるだろう。もう計画を変えられないところまで具体化していて、だからこそ予算がはっきりと取れていて、だからこそパブコメするテーマに挙がっている。逆に、市民の声を十分に取り入れる余地がある上流過程では、パブコメすることはない。
行政からすると、「もの言う市民」は、ニアリーイコール「クレーマー」だ。「市民の意見で自分たちが変わる」ということは前提になく、「市民に自分たちの意見をわかってもらう」ことが、コミュニケーションの目的になる。
市民参加、市民協働も形だけになりやすい。行政の考え方を市民に説明し、その考え方にしたがって市民が行動する、ということを期待する市民参加の場がほとんどだ。
「聞く力」を売りにする岸田首相
岸田首相の「聞く力」はどうだろうか。一見すると、「現場の声を聞きにいくトップ」、そして「調整型のトップ」というイメージだ。
トップが現場の声を聞いて、「なるほど」となって鶴の声で施策を落とすようになると、現場は「陳情の嵐」になる。そして行政職員は、陳情から生まれた場当たり的な施策の実現に振り回される。
その逆が、現場に行けども「良いご意見を伺いました。持ち帰って業務に生かしていきます」とただ繰り返すだけで、何を聞いてくれたのかわからないトップだ。
岸田さんの「聞く力」は、いま、どう発揮されているのだろうか。
本質的な変容を導く「聴き切る力」
そもそも「聞」という文字は、ただ耳に入るような印象が否めない。それに対して「聴」という文字は、象形文字として見ると、耳だけでなく目も心も文字に含まれている。耳と目と心を使って、十分に言葉を受け止めるのが「聴く」ことである。
ただ「聞くだけ」のトップの場合。「みなさん、市民参加の場へのご参加、お疲れさまです。私も、今日は勉強させていただきます。ご意見をお聞かせください!」と、なんでも聞きそうな出だし。そして、みんなが意見やアイデアを発表すると、ニコニコした顔で聞いて、例の鉄板のコメントで終わる。「良いご意見を伺いました。持ち帰って政策に生かしていきます」と。
本当に「聴き切る」トップは違う。「みなさん、私は市民のみなさんと一緒に変えていきたい。そして、現場の職員にも期待しています。今日は、みなさんの意見を聞くだけでなく、私も職員も、一緒になって考えていきたいと思います。よろしくお願いします」と挨拶する。
声の大きな市民が手を挙げて、「公園の再開発ですが、私はカフェをつくるのは反対です」と言ったとします。さて、トップはどう聞くか。
「聞くだけ」のトップは、「ご意見ちょうだいしました。まだ計画は確定したものではありませんので、ご意見も参考にしながら、さらなる議論を深めていきます」と、内容のない答えでごまかすだろう。
「聴き切る」トップは、こういった反対意見を「対話を深めるチャンス」として捉える。「わかりました、カフェに反対という意見ですね。ほかにも反対の人がいるかもしれませんし、賛成の人、あるいは別のアイデアを持っている人も会場にはいるかもしれません」と、受け止めます。そして、「公園をどうするかにとどまらず、このまちをよりよくするために、この公園がどんな役割を果たしてほしいか?を会場のみなさんで話してみませんか」と問いかける。
質疑応答では対立的になりやすいものの、少人数の対話は協力的になりやすい。最初にカフェ建設に反対意見を述べた声の大きな市民も、周囲の市民と車座になって、じっくりと話をするうちに、「公園のなかにカフェをつくるんじゃなくて、外のカフェも協力して、まち全体を公園みたいにしたらいいんだよね」と、前向きな話し合いをするようになる。
こうして、トップが「聴き切る」リーダーシップを発揮することで、市民は自分の想いに気づき、対話を通して一つになっていく可能性がある。これは、ただ表面的に「聞く」だけでは生まれない、「聴き切る」ことのパワーである。