これからの「良い会社」の基準は、「社会利益の積分値」で考えたい。 #良い会社の条件 とは?
お疲れさまです。uni'que若宮です。
日経COMEMOから #良い会社の条件 とは?というお題が出ておりますので、これからの(そして個人的にも目指したい)「良い会社の条件」について書いてみたいと思います。
「自社利益」基準からのシフト
20世紀型の資本主義で「優良企業」といえば、大きな利益をあげる企業だったと言えます。
利益を増やせば企業の株価はあがり時価総額も上がりますし、「企業価値」の算定も生み出す収益から算出されたりします。つまり、「自社の利益」が「良い会社」の最重要パラメータだったわけです。
しかし20世紀型の資本主義が「自社の」「経済」利益だけを目指して来た結果、巨大になった企業が社会や環境に悪影響を与えてしまったことへの反省もあり、SDGsへのシフトが求められてきました。
企業を「自社の」「経済」利益からだけで評価するのはあまりに一面的であり、自社以外の「社会」「環境」の収支のことも評価すべき、というのが『トリプル・ボトムライン』と呼ばれる考え方です。
自社利益のための犠牲や搾取
しかし「資本主義」において、企業が自社の利益を追求し、出資者である株主により多く還元するために少しでも利益を増やすことは当然のことのように思えます。少なくとも企業努力として利益や成長を目指すのは「良い会社」ではないでしょうか?
もちろん、企業の努力として利益を増やすこと自体は悪くありません。しかし問題は往々にして、企業が利益を増やす影で「搾取」や「犠牲」が生まれているということです。
自社利益だけを目指せば、自社以外のステークホルダーの取り分を減らし、搾取したほうが有利になります。アパレルなどでしばしば問題になりますが、低い賃金で生産国の労働力(時には児童も)を雇ったり、低価格で買い叩けば、自社の手元に残る利益はそれだけ多くなるのです。利益を増やす企業努力が、自社以外に対して不利益を押し付けることになってしまう。
こうしたことが問題視され、「エシカル・ファッション」やチョコレートなどの商品では、搾取や犠牲の対象になっていた生産者まで含め、弱者に不利益を押し付けずに共存共栄できるようにという「フェア・トレード」「レイズ・トレード」の流れが生まれています。
「労働」の搾取だけではなく、環境問題も同様です。森林や化石燃料など地球の資源を「搾取」し、そこから生まれる廃棄物などの結果物を「物言わぬ自然」に押し付けてきた。それは自社利益にとってはプラスですが、犠牲になってきた結果として環境が破壊されてしまえば、世界全体としては持続可能ではありません。
このように考えると大きな自社利益をあげ成長していたり、財務的に安定していて一見優良そうにみえる企業が、その利益を確保するために他者を搾取する「隠れブラック」企業かもしれないのです。
社会利益の空間的広さ
「トリプル・ボトムライン」の考え方からすると、自社利益でプラスだったとしても社会や環境に対し、マイナスであればよい企業とは言えません。
これはどこまでを「利益のスコープ」としてとるか、という「広さ」の問題でもあります。
自社だけをスコープとした狭い視点では収支がプラスに思えても、それを周囲のステークホルダーまで広げてみると下請けや生産者を搾取して不利益を押し付けているなら、トータルでマイナスかもしれません。
このようにスコープを周りに広げることは、とても難しいことです。自社にとってはコスト増になり利益を圧迫することになりかねませんし、一段階スコープを広げても、さらにその先の繋がりもあります。果たしてどこまでそのスコープを広げればよいのか?企業は万能ではありませんしリソースやアセットにも限りがありますから、完全にすべてを救うことはできません(目に見えるステークホルダーがすべてwin-winであっても、その影で不利益を被る人が生まれている可能性は残ります)。
僕たちは神ではありませんから、完全に調和が取れ万人が幸福になる事業モデルはありえません。しかし少なくとも、これまでのように「自社」だけをスコープにしていれば「良い企業」と言えるわけではなく、そのスコープをどれくらい広く考えようとし、どれだけ広く取ることができるか、その「広さ」が「良い企業」の指標として考えられるようになってくる気がします。
社会利益の時間的長さ
そしてまた、社会利益へのプラスとマイナスの影響は広さだけでなく、時間的長さをもったスパンで考える必要があるでしょう。
仮にある時点の断面で社会に対してもプラスだったとしても、それが後々の影響としてマイナスであるとしたら、それはやはりトータルマイナスだからです。
たとえばアートやエンタメの業界で、ハラスメントが問題になることがあります。
そういう時に擁護としてよく言われるのが、「それでもいい作品をつくっているのだから評価すべき」というものです。僕はアートの作品にはある程度、自律性はあると思ってはいます。たとえば作者や演者が薬物や不倫などでスキャンダルになったからといって作品自体を発禁にするのはちょっとちがうと思っている派です。
ただ一方で、創作という活動については、その時点での「成功」だけではなく、そのプロセスがそれ以降その業界にどんな影響を及ぼすか、ということも重要だとおもうのです。いかにいい作品をつくっていようと、これまでの悪習を踏襲したりハラスメントをすることの言い訳にする(パワハラに多少耐えれなきゃいい作品なんかできないんだよ!最近のやつは弱いんだよ!根性見せろ!みたいなの)のはやっぱり間違っていると思います。そうした「成功」は次代にまで悪影響を与えるからです。
その逆に、その時点での「成功」以上に、先々にわたってプラスの影響を与える企業もあります。
たとえば、パタゴニア。創業者イヴォン・シュイナードは他のビリオネアのような「成功」を手放したとも言えます。しかし、これまでビリオネアをロールモデルとして目指してきた起業家たちに対し、こうした創業者の選択があることを示したことは未来に向かって非常に大きな貢献だと言えます。
あるいはヘラルボニーのように、「障害」の捉え方や可能性を変えるような事業も次代の起業家に新たな事業の可能性を開き、その会社自体の「成功」以上に長い射程で社会利益を生んでいくと思います。
今の「成功」を求めるなら、むしろ既存の価値観や成功事例を辿るほうがよいかもしれません。しかしそうしたセオリーに囚われないチャレンジによって、将来にわたり世界に変化を生む企業こそ本当に「良い会社」ではないでしょうか。
投資家たちも指標を見直そう
SDGs時代にはこれまでのように、自社だけのスコープで利益を考えているだけの会社は「良い会社」とは言われなくなって来ています。より広く、そしてより長い目で社会の利益を考えていける企業がこれからの「良い会社」だと僕は思います。
しかし、いくら企業や経営者がSDGsを掲げ、社会価値を考えようとしてもなかなか難しいところがあります。投資家がやはり経済的リターン(それも短期の)だけを求めるなら、経営者はその重力に抗えないからです。
ダイバーシティは大事だけど、業績が落ちると困るから。環境は大事だけど、コストが増えるから、販売数は減らせないから。そうしたジレンマを抱える経営者は多いでしょうし、投資家の圧力によって目先の利益を確保せねばならないこともあるでしょう。
先程の記事で、パタゴニアのイヴォン・シュイナードはこのように語っています。
資本主義において、会社が変わり経営が変わるためには、投資家も変わらなければいけないでしょう。「良い会社」とはどんな会社か?僕たちが投資家としても(あるいは消費者としても)、経済的・短期的利益だけではなくその会社の生み出す社会利益を総体として捉えられるようになれば「良い会社」は増えていくはずです。
その意味で、経営者のみならずみんなが「良い会社」について考えてみることは、社会を変えていく第一歩かもしれません。