アイデンティティを失う日がやってくる。
電子機器やインターネットとの付き合いをいつ始めたか?ということが、若い世代の考え方や習慣を分析するのによく使われます。ネットに慣れ親しんでいる度合いが多くの行動を左右するからです。
例えば、「今の若い子は、彼女・彼がお互いに遠く離れていても、あんまり辛くないみたい」との話を聞きます。リアルな経験を重んじるイタリアにおいてさえ、です。Whatsappなどで頻繁にコンタクトしているので、身体的な近さが常時なくても平気だと言います。
どの程度の母数で、この傾向が語られているのか知りません。でも、そうなのだろうと思わされるエピソードです。
さて、今週、ミラノ郊外にある認知症の人のためのケアサービスセンターを見学する機会がありました。その時、これからの高齢者や認知症の人たちの行動パターンも、若い人と同様に変わっていくのだろうと思いました。
ケアサービスセンターはどんなところにあるか?
ミラノ市内からクルマで30分ほど行った郊外にあります。農村地帯にある市の土地を使った「ソーシャルハウス」と呼ばれる集合住宅があり、さまざまな世代・国籍・生活形態の人たちの交流を前提としています。
ここがオープンしたのは8年前なので、この地域なりの文化を語るにはまだ早いですが、人々を繋いでいくための試みが積極的に実施されているのは確かです。
この一角にアルツハイマーの人たちのためのケアサービスセンターがあります。日帰りで昼間ここに滞在する人たちがメインですが、一部、ここに住んでいる人たちもいます。内部を見学すると、認知症の人たち同士で会話が成立することは少なく、じっと何かを眺めているか、廊下を歩いている・・・ヘルパーの人たちの話しかけが交流の中心であるような印象を受けました。
年齢は聞いていませんが、みるところ80歳前後から上が多いです。
ケアサービスセンターでの試み。
このセンターには食堂、映画を観る部屋、運動をする部屋などいくつか部屋が機能的に使い分けされています。そのなかの一つにワークショップをすることができる空間があります。
ベッドルームやリビングルームとしても活用できるのですが、ここには壁の模様を簡単に変えられるようなパネルシステムがあったり、さまざまな小物、例えば古い家電製品やミシンが置いてあります。過去の記憶を取り戻すフックとなりそうなものを多数揃えているのです。
ミシンをみれば、自分の親が何かを縫っていたシーンを思い返すかもしれません。それがきっかけで自身の子ども時代の想い出を語る、とか。
このインテリアデザインを開発しているミラノ工科大学デザイン学部のリーダーは、10年以上前、薬物を使わないで認知症の進度を遅らせることを考えた医師に協力しました。そこでつくられた空間が列車のコンパートメントです。旅に出た気になれると、古い記憶が蘇るとの結果がでたのです。
「アクティブ・エイジング」というおさえかた。
アルツハイマーは、およそ20年をかけて記憶をじょじょに失っていくとのデータがあるようです(人によってはもっとスピードが速い場合もあるでしょう)。
これは何を意味するのでしょうか?
認知症の人というと、足元がおぼつかなくなる年齢の人たちを思い浮かべることが多いと思います。そして、認知症の人たちのケアを考えていくにあたり、その人たちの習慣や行動パターンを基にしがちです。つまり、冒頭の例でいえば、もとよりネット感覚はあまりない人たちの習慣や行動パターンです。
ですから、認知症の人たちのためのケアに関するデジタルプラットフォーム構築といった場合、「ケアをする人たち」あるいは「ケアをする人たちを求める人たち」を対象にする傾向があります。
しかし、これから記憶を失っていく人たちーつまりは、デジタルの世界に馴染んでいる人たちーのための、デジタルプラットフォームが今から必要になっていくのではないか?と今回、ぼくは思ったのです。
また、活発に活動している時代を終えたとき、あるいは何かの心配事がなくなったとき、記憶を失い始めるとのパターンもみます。つまり、何かを行動し続けることで記憶の喪失スピードが下がる可能性があります。
ここで「アクティブ・エイジング」という考え方との相性の良さがでてきます。
アイデンティに頼って生きられない日がやってくる。
ミラノ工科大学デザイン学部の上記活動指針のプレゼンも聞いたのですが、記憶と共に失うのはアイデンティだと指摘していました。
我々は散々、アイデンティティという言葉に頼って生きています。大きな声でアイデンティティの重要性を語ります。しかしながら、あるタイミングでこのアイデンティティを失っていくのです。
他方、それでも、何らかの美しいものに接すれば心が動かされます。これがアクティブであるための動機にもなります。
ミラノ工科大学のリーダーが語っていました。「このプロジェクトを進めるにあたり、関係者たちは数えきれないほどの回数、涙を流してきた」と。
人生を「アイデンティティ重視時代」と「審美性重視時代」などと分けることで、1人の人生の礎をスイッチするなどできません。とするならば、アイデンティティという表現にこだわりを持たない、美しさに鋭敏な生き方を選んでいくのが良さそうです。
現代は、近代以降の数々の重荷を肩からおろしていく時代なのかもしれません。