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新しい一歩とは何か?を問い続けるー『「科学的」は武器になる』を読んで。

コンテンポラリーアートの世界が変わりつつあります。

それは作品コンセプトだけでなく、表現の材料や手段、作品の発表の仕方、あるいはアート作品の売買システムの変化を含みます。例えば、かつてアーティスト、ギャラリスト、批評家の3者が作品の価値をつくる絶対軸となっていました。

それが今世紀に入り、別の軸も許容するようになります。新しいシステムにおいては、それまで評価基準をつくる人として位置づけられていたギャラリストや批評家が相対的に地位を下げていきます。具体的には、インスタグラムを通じてアーティストと購入者が直接交信する現象が、このような状況を生んでいます。

2つのシステムが併存していくわけです。

しかしながら、あらゆる点で変化はありますが、アーティストが期待される文化の創造者との役割は基本的に変わっていません(下記記事)。多くのアーティストは常にアートヒストリーのなかに新しい一ページを切り開いていこうとし、そのなかで極めてまれにアートヒストリーを超えた文化的価値が生まれることがある・・・というのが現実です。

実際に何かを発明・発見することがめったにないという点で、ほとんどのアーティストは真のパイオニアにはなっていない。その独創性は全く別の領域にある。人間の深い感情だけでなく、アーティストが生きている文化全体の温度やテンポを吸収・反映し、再定義して表現する類いまれな能力だ。

現在、ヴァイオリンの教育法であるスズキ・メソードの会長を務める物理学者・早野龍五さんの『「科学的」は武器になる』を読み終えたとき、実は科学とアートという2つの世界の対比をぼくは思い浮かべました。早野さんが生きてきた科学(物理学)の世界は、歴史上の偉大な「巨人の肩の上」に立ちながら新しい理論や新しい事実を見いだしていくわけですが、「新しい一歩とは何か?」を究極まで問う姿勢は2つの世界でどこまで共通するのだろう?と、どちらの世界においても門外漢のぼくは想像したのです。

というわけで、この本を読みながら、思ったこと考えたことをつらつらと書いてみます。起承転結型ではない流れで、といえばいいでしょうか。直接存知あげる方の半生記のレビューを書くのはものすごくハードルが高いです。でも、この本が教えてくれることは、ある考え方を身に着ける(つまりは血肉とする)とはどういうことか?であり、読了したときに書かないという選択はないと思ったのですね。

「アマチュアの心で、プロの仕事をする」

数年前、ミラノ市内のレストランで早野さんと夕食をご一緒しました。そのとき、東京大学の教員を定年で辞めたらヴァイオリンの教育法を広めるスズキ・メソードの会長になる予定だと聞きました。「それは良かったですね!」とのセリフが思わず口から出ました。真っ先に「良かったですね」と思ったのです。それは、人生のページのめくり方としてとても刺激的ーより多くの面をつくるーだと感じたからです。こういう展開の妙をぼくも学びたいと瞬時に思いました。

2011年3月11日まで早野さんは主に物理学の世界で生きてこられた。世間からは閉じていると遠くに見え、その内は極めてオープンな実験物理の世界で国際的な実績を積んでこられた。それが東日本の大震災、それに続いて起きた第一原発の事故、その時点から公開された事故に関するデータをご自分で整理しグラフ化し、ツイッターで黙々と発信をはじめたら一気にフォロワーが10数万人に増えた。その結果、がっつりと世間と称する社会と共に歩むことになり(「羽目に陥り」との表現が相応しい要素が当初あったようですが)、時に社会と対峙するかに(ある人たちからは)見える位置にも身をおきます。

しかし、科学者から「アクティビスト」に変身したのではありません。科学者という立場でアマチュアリズムを発揮して、社会にどこまで貢献できるかの挑戦をはじめたのです。状況を科学的に把握して発信することで、人々の無用な心の動揺や社会的衝突を減らす方向に導くべく活動されました(ぼくが早野さんとお知り合いになったのも、2015年、早野さんと福島高校の2人の生徒さんにイタリアのジャーナリストや学識者の前で、福島の現状をお話しいただくようにお願いしたからです。この食の安全に関するカンフェランス開催の経緯と結果はほぼ日の連載「イタリアで、福島は。」でレポートしました)。

本書を読むと、早野さんは大学院時代の恩師に「アマチュアの心で、プロの仕事をする」ことを徹底して叩き込まれ、専門と規定される枠組みから外れる領域に軽快に足を踏み入れる心構えを身につけたことが分かります。それこそが新しい1ページを拓く、と。そして、その第一歩が「自分で決めた自分のこと」であるために、その後の活動が創造力溢れるのだと思います。それゆえにプロレベルのアウトプットが出しやすくなるー。

この精神が2011年3月11日以降の活動の礎にもなっていました。早野さんは、このアマチュアリズムをここぞというタイミングで何度も発揮しています。だからおよそ6年間、福島のことに注力された早野さんがヴァイオリン教育の場に舵をきる(正確には、会長職のオファーを受けた)のは、そうした方向転換こそに好奇心が刺激され、生きる醍醐味があるとの実感があるからでしょう。実験物理にはチーム力と資金力が必要だから退官後は継続的な研究が難しいとの事情が絡むにせよ、です。

「社会には100点以上の領域がある」

早野さんは4歳の時からスズキ・メソードの創設者よりヴァイオリンを習います。1964年、小学校6年生で10人のメンバーの一人として全米ツァーに出かけ、何処の都市でも絶賛されたようです。この経歴のもと、現在、スズキ・メソードの会長という顔があるわけです。

ここで、まったくのプライベートなことで恐縮ですが、ぼくの奥さんは幼少の頃からピアノを習い、小学生の頃はNHKのピアノ教室に出演するなどピアノどっぷりの生活をしていました。音楽大学のピアノ科を卒業し、ミラノでもピアノを教えながら、自ら音楽院の先生などに教授を受けています。その彼女に早野さんの中学生の時の次のエピソードを話しました。

そのうち僕は「演奏家の模倣ばかりで、それは僕のオリジナルといえるのだろうか」と考えるようになる。僕には僕の個性があって、それを取り入れなければ本当の演奏とはいえないのではないかー。そう考えて、僕はある日のレッスンで、ちょっとアレンジをした演奏をしたんです。<中略>そこで、正確な言葉はちょっと思い出せないのですが、「あなたの弾き方には品がない」という趣旨のことを言われて、はっとさせられました。

奥さんにも「私も中学生の時にまったく同じ経験をしたことがあるわ。一度、モーツァルトの曲を先生にすごく褒められ、このままCDを出せるくらいだと言われたの。でもその翌週、自分でアレンジして弾いたら、先生に辛辣なことを言われ・・・・」との記憶がありました。

彼女と話していると、かなり子どもの頃の先生の「金言」を覚えているのですね。その時に、それが金言とは認識していなかったでしょうが、後々「そういえば、あの時に言われたことは、こんな意味だったのでは」と思い起こすに値する言葉の数々が頭のなかに蓄積されているのです。

音楽でも絵画でもスポーツでも構いませんが、子どものときに一対一か少人数のグループで、あることをマスターすべく大人から学ぶ意味は、この(将来の)金言を蓄積することにあるのではないかという気がします。(部活のような)1-2歳上の先輩ではなく、(親ではない)成熟した大人と定期的に接することで、マスターする先にある領域、即ち100点以上の世界の存在を彼方に意識しはじめるのではないかと思いました。

合理性にも感情にも支配されない道を選ぶ

科学的な合理性で詰める部分、人の感性や感情の領域にあって合理性ではいかんともしがたく抑制しづらい部分、大雑把にいって世の中にはこの2つの部分があります。しかしながら、これらの2つがきれいに分割されているわけもなく、それぞれが複雑に重なり合っているものです。

早野さんは実験物理で科学的合理性を究極まで「楽しく」突き通し、その一方でかなりのサイズのチームを率い、非合理的な部分とも「楽しく」つきあってきたようです。そのなかで、早野さんのとても人間臭さがでているのが、30代後半に至るまで、時々「物理ではなく医者の道を選ぶべきだったのではないか?」という雑念が繰り返し浮上してくることです。

早野さんは祖父母も父親も眼科の医者で、ご自身も臨床医になるか研究者になるか、いろいろなタイミングで考えられたようです。高校時代、大学の学部の時代、修士課程以降、「物理で生きる!」と決めたにも関わらず、「青い隣の芝生」が何度か視界に入ってくるのですね。その場でやったことの結果が自分にも周囲にも見えやすい仕事、やっていることがどういう結果を生むか自分にも分らぬままに何年も生きなければいけない仕事、どうしても前者、つまりは臨床医という性格がもつ「わかりやすさ」が気になるようです。

若き頃から人生の方針を定めていながら、何よりもプラグマティズムに徹しているような雰囲気をもちながら、心の中には「揺れる玉」のようなものを生かし続けていた・・・。

この「揺れる玉」を転がし続けた経験があるからこそ、科学的には不要と判断される赤ん坊の体内の放射線物質量を測る社会的な意味ー母親の心配は科学合理的に解消しきれないーを積極的に受け入れ、赤ん坊用のホールボディカウンターの開発に関わったのかなと想像しました。

いずれにしても、合理と感情のどちらかに一方的に支配されない考え方というか、身の処し方のエキスに触れた気がします。迷いとか後悔を否定的な場におくのではなく、自らの内にそれらを「飼いならし続ける」(これを現在進行形のときに他人に言うかどうかは別として・・・)のは人の幅と深さをつくるのだと再認識しました。

新しい一歩とは何か?を問い続ける

ぼく自身、アーティストでも科学者でもないですが、新しいコンセプトをつくる、またはその現場にいることが自分の進む方向だと20代に確信し、そのベストな場所としてヨーロッパで生活することを選びました。

常に歴史の新しい1ページを問う習慣があり、それが一過性ではない次の時代への橋渡しとしての役割とは何か?を考える「癖」がある。それを英国のスポーツカーメーカーの人たちと一緒に仕事をしているなかで彼らヨーロッパ人の傾向として気づき、ぼくはコンセプトに拘る少量生産の「こっちのタイプで行こう!」と決めたのです。

したがって、新しい一歩の選び方や踏み出し方は、ぼくの生涯にわたるテーマといってよいのですが、やはり一歩のきっかけはどうしても「偶然」に左右されるのですね。または心のどこかで偶然をほのかに頼らざるえをえないーよって偶然がこない時には「運がなかった」と諦めもつく。

自分1人でさまざまに考え、行動を思いっきり広げていても、何処かの時点で自分にはあずかり知れぬところにある事実や考えと結びつかない限り、新しい一歩になりにくいと思います。いや、個人的な一歩では可能かもしれないけれど、歴史をつくる一歩という観点において、です。

世界的な評価をうけ、およそ40年を経た今も引用され続ける早野さんの博士論文は、バンクーバーにおいて早野さんが実験で得ていたことを東京にいる先生に伝えたとき、たまたまそれを聞いた隣の研究室の理論物理の先生が「あの理論を証明することになるのでは?」と気づいたのが起点でした。

1600年代、内省的な生活からこそ考察としたとされる哲学者のデカルトでさえ、デカルトにとってはヒーローだったに違いないガリレオが地動説を主張して異端審問で窮地に追い込まれた状況を知り心を痛め、社会の個別の事象から距離をおいて普遍的抽象性で新たな道を示すしかないと決意したに違いないと、スティ―ヴン・トゥールミンは『近代とは何か――その隠されたアジェンダ』のなかで記しています。外的要因で内省的に突き進むしかなかったのです。

新しい一歩は、「遠景を見続ける癖」(場合によっては「遠景を見ざるを得ない」環境に自らをおく)によってしか達成されないのではないかと思います。これが偶然の確率をあげるのでしょう。

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最後に冒頭の問いにもどります。科学の世界においては査読論文というシステムが生き続けるのでしょう。他方、コンテンポラリーアートにおいて批評空間はまともに維持されるのか?との心配を生んでいる。これが現在、2つの世界で大きく違うところでしょうか。

一歩の質を問う場の有無は見逃せないポイントです。

写真©Ken Anzai








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