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コーヒー豆の価格高騰から考える「感性的なもの」の価値 ~芸術支援に関する教訓を活かすには~

コーヒー豆が世界的に高騰しているという。

ウクライナでの戦争の影響で農薬の供給が滞ったり、ブラジルでの霜害等がその原因であるとされる。コーヒーは世界で最も飲まれている飲料だそうだが、私もコーヒーをこよなく愛する一人として、豆の高騰が大変由々しき問題であることに異論はない。

しかし、ふと考えてみると不思議な話である。コーヒーは、価格が高騰すれば(コーヒー産業で働く人は別として)生活に著しく支障が出るというものではない。

これがガソリンであれば、高騰すれば仕事に必要な移動にも制約が出るし、小麦が高騰すれば生活必需品としてのパンを変えなくなるということもあり得る。しかし一般的にはコーヒーそのものに、栄養学的に不可欠な成分があるわけではない。それなのに、世界で最も消費される飲み物の座に上り詰め、その価格高騰がニュースにもなるようになったのである。

「感性財」としてのコーヒー

おそらくコーヒーの効用は、その飲み物の栄養学的効用そのものにあるわけではない。もちろん、カフェインの効果など全く無いとは言えないが、むしろコーヒーを飲むことを契機として「ほっと一息」できる時間が重要なのであろう。

話は少々それるが、私は少し前から「ぼー活」と称して、積極的にぼーっとする活動に取り組んでいる。あらかじめ30分とか60分とか時間を決め、お気に入りの喫茶店などの場所で何も考えない、何も見ないで過ごすのである。

最初はついついスマホを見たくなったり、何もしないことに耐えられなくなるのだが、最初の10分ほどの山を越えると、そのうちにぼーっとする時間が心地よく体に馴染んでくる。何も考えないことが心地よくなり、思考が自由に漂うようになる。一種の瞑想のようなものかもしれないが、特に高尚なものではなく、ただ「ぼーっと」するだけの、気楽なものだ。

ちなみに、マラソンになぞらえて、30分のぼー活を「ハーフ」、60分を「フル」、120分を「ウルトラ」と名付けている。ウルトラはまだ達成したことがない。(ちなみに自然を眺めながらであればいくらでもぼーっとできるので時間を決める必要はない。)

話がだいぶそれたが、要するにこの「ぼー活」にもコーヒーは欠かせないアイテムとなっている。美味しいコーヒーとケーキ。この二つを少しづつ頂きながら、ひたすらぼーっとするのが至福の時間である。コーヒーは、私にとってこうした感性を刺激し、心地よいひとときを過ごすためのアイテムとしての効用があるのである。

ただ、それがコーヒーでなければならないかといえばよく分からない。ハーブティでもいいかもしれないし、もしかしたらケーキでなく音楽でも良いかもしれない。しかし、「心地よいひととき」を手に入れるための最も身近で手軽な方法としてコーヒーが選択されているのだろうし、そうした「時間の切り替え手段」としての有用性が、多くの人がコーヒーを嗜む理由の一つなのだろう。

つまりコーヒーには感性を刺激するための触媒、「感性財」としての役割があると言っても良い。

生活必需品でなくても大切なもの

要するに、コーヒーは嗜好品か必需品かと言われれば嗜好品でもあるし、コーヒーの効用というのは「気持ちの切り替え」や「心地よい時間」といった、直接的に数字で測りにくい、間接的なものなのである。

そのような立ち位置の商品価格の高騰がニュースになっていることに、ポジティブな意味で驚きを感じたのである。なぜこうした嗜好品の価格がニュースになったことに驚きを感じたかといえば、このところ生活必需品以外の価値を声高に主張しにくい雰囲気があったからである。

今はもう懐かしい響きとなってしまった感もあるが、コロナ禍の初期においては「不要不急」という言葉が盛んに発せられた。生活に真に必要な場合を除いて、外出を控えよ、という意味である。不要不急の名のもとに、多くの芸術や音楽イベント等が中止に追い込まれ、芸術家たちが窮地に陥った。

芸術は確かにいま触れなければ命にかかわるという必需品ではないものの、感性を刺激し、心豊かな時間を過ごすという点では、一人一人にとって重要なものである。芸術に対する「不要不急」論に対しては芸術家サイドからも異論が出ていたものの、コロナで命を落とす人もいるという状況の中でそれを声高に主張するのも憚られるという状況もあったであろう。

ドイツの文化芸術を重視する姿勢や、支援策がこの当時話題となったが、芸術という人間の精神生活において、また文化的な生活において極めて重要な役割を果たすにもかかわらず、生活に喫緊に必要ではないという理由でその価値を訴えることが憚られていたことと、同じく必需品とはいえないものの感性的な価値に関わるコーヒー豆の価格が高騰しているというニュースにギャップを感じたのである。


生活必需品は重要ではあるものの、人間はパンのみに生きるわけではない。だから、コーヒー豆の価格を通して、こうした感性的な価値に注目が集まるとすれば、それ自体は歓迎したいことである。

しかし、現在の物価高騰下での支援でも、同じことが繰り返される可能性がある。円安と世界的なインフレによる物価高騰に対応して、大企業に賃上げを求めたり、数十年ぶりのベースアップが実現するというニュースが飛び交っているが、フリーランスや多くの芸術家はベースアップとは無縁の報酬形態で働いている。

ましてや、物価高騰で生活が苦しくなれば、真っ先に削られるのは芸術等への出費であるかもしれない。代表的な雇用システムのみに目を奪われないよう注意が必要だ。

コロナ禍での芸術支援で日本が何らかの教訓を学んだとすれば、それを一過性に終わらせず、常に「感性的なもの」が抜け落ちていないか、意識して確認していく必要があるのではないだろうか。コーヒーもここまで普及しているのだから。


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