「何者でもない私」になった時の生き方
単身世帯(一人暮らし)というと、若い独身が多いというイメージがあるかと思うが、もはや年齢別の単身世帯数は65歳以上の高齢一人暮らしが一番多い。
何もこの人たちは全員が生涯未婚ではない。むしろ、結婚歴があって、子どももいるかもしれない人の方が、この世代の生涯未婚率から考えれば多い。それもそのはずで、結婚しようが、子どもを作ろうが、誰もが最後に一人に戻る可能性があるからだ。
そういう不可避な現実についての適応について書いた記事がプレジデントオンラインで公開されました。おかげさまでたくさんの方に読まれています。
何度もいうが、孤独耐性は男より女の方が強い。老後、旦那に先立たれた妻の幸福度が一気にあがるのもそういうところだろう。一方で、既婚男は孤独に弱く、特に、配偶者との離婚や死別があるとその先生きていけないパターンが多い。そもそも孤立死で液体化された状態で発見される高齢男性の多くは元既婚者だからね。
特に、免疫がないのが、現役時代に大企業勤務でそこそこ出世して仕事にもやりがいを感じ不自由のない経済力を持ち、家庭では良き夫、良き父親をやっていると勘違いしている(一見勝ち組)のおじさん。これがもっとも危険。
しかし、そういうおじさんに限って、今回のような記事を「だから何?そうなった自分が悪いんでしょ。友達がつくれないとか小学生でもできることができねえのか」とか上から目線でキレ気味に書いてくるわけですね(意識高い系のニューズなんたらとか特にそう)。
でもね、そういう反応をする人こそが、老後何もすることがない屍になっていくんですよ、間違いなく。その理由は記事に書いた通りです。
定年退職して、部下も仕事仲間もいなくなって、子どもは独立し、妻からも愛想つかされた時、果たして一人で生きていけますか?
言い方変えると、〇〇会社の所属から追い出されて、〇〇部長とかの肩書もなくなり、評価権や人事権があるから従ってくれた部下もいなくなり、発注してくれるから飲みに行ってくれた取引先もなくなり、家族もなくなり、夫でも父でもなくなった時、ありとあらゆる自分に対する肩書がなくなった時、あんたは他人と喋れんの?って話です。
名刺交換からしか他人との会話が始められない奴とかまず無理だから。
現実的には起こり得る未来であって、そうなってからジタバタしてもあとの祭り。もしそうならなくても、「何者でもない私」で、武勇伝語っり、マウントとることもなく、他者とコミュニケーションをとる意識はもっておいた方がよいと思う。
老後に重要なのは「友達の数」ではなく「会話の数」。
これの意味するところは実際にそういう状況に陥れば痛感するだろう。逆にいえば「会話の数」が充足していれば、友達なんてゼロでもまあまあそこそこしあわせに生きていける。
そう考えた時、なるほどな…と感心した以下のリプライをもらった。
桐島聡とは、半世紀近く逃亡生活を続けて、死の4日前に素性を明かした人物だ。
犯罪で全国氏名手配されて50年近くも逃亡生活を続けるというのは、さぞ誰とも接触せず、孤独に逃げ回っていたのだろうという印象があるが、どうも桐島聡こと内田洋は多くの人との会話をし、とても楽しそうに暮らしていたという話が伝わってくる。
恋愛らしきこともしてたっぽい
そしてなにより、地元の工務店で40年近くも働いていたということ。働き口の住み込みの家は確かにオンボロだけど、逃走車としてネカフェやホームレスをしていたわけじゃないってこと。
もちろん、犯罪をして逃げていたという点はあるし、犯罪者を擁護称賛する意図はゼロだけれども、働ける場所があって、常連の店があって、そこで出会う客同士の会話があって、周りから「うっちー」と呼ばれて愛されキャラだったという話などを総合すると、なんかしあわせじだったんじゃないかな~と思ったりする。加えて「何者でもない私」どころか「本名でもない私」を50年近くを通してきたわけで、その生きる力を支えたのは彼の「会話力」だったのではないかと思うのである。
老後、眠る前に「あ~今日は一言も声を発しなかったな~」という爺さんと比べてどっちが楽しい人生なのだろう。