天職なくして現代の資本主義は生まれなかった
日経COMEMO「#天職だと感じた瞬間」
日本経済新聞と日経電子版COMEMOの共同お題企画として、「 #天職だと感じた瞬間 」が募集されている。
仕事に成功してやりがいを感じた時は、顧客から感謝されたときなど、「この仕事をしていて良かった」「天職かもしれない」と感じたことのある人は多いだろう。
一方で、「自分には天職があるはずだ」と自分探しをしている人もいるのではないか。特に大学生やキャリアの節目にある人に多く、天職とまで言わなくても、「自分に合った仕事がもっとほかにあるのではないか」と探索している人は多いように思われる。
さて、それでは働くことの専門家である経営学者が「天職」と聞いた時、多くの人が感じるように「やりがいを感じた」「自分に合った仕事」と考えるかというとそうでもない。そうというのも、「天職」に関しては経営学者の誰もが勉強する古典的な研究があるためだ。その研究とは、マックス・ヴェーバーによる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。
なぜアメリカから資本主義が花開いたか
アメリカの歴史を紐解くと、その起源は「イギリスのキリスト教徒はより純粋なプロテスタントであるべきだ」とイギリス国教会と袂を分かった清教徒たちがメイフラワー号で北米に入植したのが始まりとされる。そのため、人種のサラダボウルと言われるように多様な人々がいるアメリカだが、文化的にはプロテスタントの影響が大きい。
さて、それでは清教徒たちの信じるプロテスタントの教えが、従来のカトリックやイギリス国教会と大きく異なったのはどこにあるのか。それが、カルヴァンの『キリスト教網要』で説かれた職業に関する考え方だ。
つまり、「働いてお金を稼ぐこと」は良いことだと考えられた。それまでのキリスト教の価値観では、富を得ることは悪いことだと考えられてきた。ユダヤ人が金融業の担い手となった遠因でもある。お金儲けを悪いことだと考えることは、近世まで世界的に広くみられる価値観だ。アジアでも「士農工商」と言われるように、経済活動の従事者である商人と職人は一段下にみられてきた。なお、士農工商というと江戸時代をイメージする人が多いかもしれないが、概念が登場するのは紀元前1000年の古代中国だ。
プロテスタントの考え方に従うのであれば、「天職」とは職業そのものを指すのであり、神から与えられるものだ。そこに人間の意志が介在する余地はない。ということは、職業は何でも良いことになる。ただ、自分に与えられた機会を神から与えられたものだと感謝し、禁欲的に労働に勤しむことが天職と言える。
なお、ヴェーバーはアメリカ同様に資本主義が花開く宗教的な土壌がある国として日本を挙げている。特に浄土真宗(一向宗)に代表される、仏教独自の禁欲的でありながらも、世俗にいて家業に精を出すという生活様式が評価されている。つまり、労働の目的が利潤を追求することにあるのではなく、労働を通じて信仰に繋がるという価値観が資本主義の醸成において重要な役割を果たした。
天職とは何か?
マックス・ヴェーバーによる天職の概念を借りるならば、天職とは「やりがいがある」「自分に合っている」という個人の主観的評価とは関係がない。ただ、職業を神から与えられたものと考え、禁欲的に与えられた業務に従事することで信仰に寄与することが天職となる。このような価値観は、宗教観の薄れた現代の感覚とはだいぶかけ離れているだろう。しかし、ここから天職について、現代にも役立つ知見を得ることができる。
それは、天職とは探すものではなく、目の前の仕事に一生懸命に努力する中で自然と見つかるということだ。このことは、「やりたいことはなくてよい」と、立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏やZアカデミア学長の伊藤羊一氏ら、現代の知の巨人たちが口をそろえて言っていることでもある。
学術的にも、キャリア論で有名な「キャリア・ドリフト」という概念がある。ドリフトとは「漂流」という意味で、自分の将来について、あえて事前に道筋を決めるのではなく、節目ごとに生じる変化(キャリア・トランジション)だけを明確に設計し、基本は自然の流れに身を任せるキャリアの在り方だ。
つまり、天職とは狙ってこうだと決めるものというよりも、一生懸命にキャリアを歩んできた結果として、ふとしたときに「これが自分の天職だったのだ」と気が付くものと言える。そうすると、「自分に合った仕事とはどのようなものか」「天職を見つけよう」と身構えている人は肩の力を抜いて、まずは目の前の仕事に禁欲的に打ち込みながら、キャリアの転換点となるような機会が訪れるまで待ち続けることが重要となるだろう。それが、マックス・ヴェーバー的な天職の現代版と言えるのではなかろうか。
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