NFTとアートシンキング

最近ふとアートとビジネス関連で気になるニュースが2つあったので、そこを起点に少しお話したい。

アメリカの大手投資企業「グッゲンハイム・パートナーズ」の共同創業者であるトッド・モーリーが、ニューヨーク・マンハッタンにNFTに特化した世界最大級の美術館を建設することがわかった。

 Artnet Newsによると、この美術館はニューヨーク近代美術館にほど近い西57丁目111番地に位置する高さ約435メートルの超高層ビル内に設置。このビルは、世界一細い超高層ビルとも呼ばれており、今年末に完成予定となっている。完成後のビルには、アールデコ調のテラコッタ、ガラス、ブロンズの装飾で覆われる高級マンションも入居する。

 このビルについて、モーリーはブルームバーグ・マーケットのインタビューで「テクノロジーの象徴のようなもので、新しいテクノロジーを発表するのに最適な場所。このビルは、ニューヨークのすべての人を無線取引、無線暗号取引、無線通信に接続することができるだろう」と語っている。

 また、「デジタルアートのために、なぜ物理的な美術館が必要なのか?」という質問に対し、モーリーは「ミュージアムの意味にもよる。グッゲンハイム美術館は、文化を利用して資産を開発し、人々を集める不動産開発のツールとして、驚異的な成功を収めている」とグッゲンハイム美術館を例にしながら、テクノロジーを駆使したインフラや、地域への投資を通じて文化を取り込むことへの興味を示している。
「何のために会社に入り、何をしたかったのか」――。企業が社員の問題意識や願望を解放して技術革新を導き出す「アート思考経営」に注目が集まっている。日本企業は需要に合う製品を効率的につくることを追求しすぎて、魅力的な製品が減った。芸術家のようにまっさらな状態で事業を見つめ直し、創造性を育む。「MBA(経営学修士)よりMFA(美術学修士)」と言われる時代が到来するか。

なぜこの2つのニュースについて今回少し言及しようと考えたかというと、
昨年、芸術祭のキュレーターを経て改めて感じた事を含めて、昨今盛り上がっているアート×ビジネスについての違和感をと思ったから。

NFTってなんで盛り上がっているの?

最近のアート×ビジネスのホットトピックといえばNFTだろう。

2021年2月25日から3月11日にわたり行われたクリスティーズ・ニューヨークのオンラインオークションでBeepleのNFTデジタルアート作品《Everydays: The First 5000 Days》が現存アーティストによる落札額第3位となる約75億円(6934万6250ドル)で落札され、NFTアートに注目が集まった。

いきなり爆誕した”巨大市場”に話題沸騰。
これによって「アートがアップデートされる」論まで捲き起こっている。

なにか、これまでアートに興味がなかったひとにまで関心事となり、言の葉にのることは良いことであるし、特にアートの市場がまだまだ広がっていない日本において話題になることは確かにいいことかなとも思う。

ただし、DXの文脈にあるからなにか新しい気がするだけで、NFTになにかアート自体のアップデートであったりするものではそもそもまったくない。なぜそのようなミスリードというか誇大妄想的な話が出てくるのかといえば、多分IT界隈のポジショントークなんだろう。

しかし、あくまでNFTは流通のDXでしかなく、その流通の流れ自体やアートの制作プロセス、そしてアートのルールを変えるようなものではないと考えるのが現時点で妥当であろう(NFTという仕組みそのものを画題にするというアートはありうるが)。

そして、あくまで二次市場の流通をDXしなめらかに且つ厳格にするものであるこのNFTというしくみが急激に盛り上がったことの背景は、アート自体への人気にあるわけではないであろうということも考えなくては行けないと思う。数年前から仕組みとして存在していたNFTやクリプトアートが、普通に考えて、既存のアートマーケットの規模を逸脱してこの数ヶ月で爆進するほど、現代アートに人気や資産価値が突発的に急に高まるとは考えづらいというのは同意いただけると思う。私が考えるには、コロナ禍の経済対策を背景にした株式市場のバブルの後に、その資産の退避及び次のバブルの可能性として注目され盛り上がった仮想通貨市場があり、でも仮想通貨市場がその流れで急激にバブルの様相を呈するなかで、儲かった利益を確定させる為の手段が乏しいなかに「NFT」という仮想通貨で売買できる「資産」に注目が集まっただけだという方がしっくりくる。

そう考えると、私としは納得だけれども、バブル経済の時によくわからないけどやたらと近代アートの絵画が買い漁われたりしていることと何ら変わらず、ただそれがデジタル上で行われているだけにも思えてくる。

あれだけ高額の絵画がやりとりされた結果としての今の日本のアート市場や位置づけを考えると、今のNFTブームが本当にアートの浸透に繋がるかはかなり怪しいと考えざるを得ない。

アートシンキングはビジネスに使えるの?

その一方で、同じビジネス×アートの文脈で活発な話題となっているのが「アートシンキング」だ。「デザインシンキング」に続く次のテーゼとしてたくさん本も出ている。

NFTやアートオークションが盛り上がっているみたいな投機としてのビジネス×アートの話に比べると、アートシンキングはあくまでビジネス上のOSにアートを組み込もうとすうる試しなので、多くの人にアートが本当の意味で身近になったり理解されたりということに繋がる可能性があるとは思う。

この「アートシンキング」が広がってきている背景として考察しているのは、やはり昨今のITビジネスのトレンドにあると思う。これまでの商品開発や事業開発においてのテーゼは「ユーザーファースト」だったわけで、それこそ消費者アンケートだのインサイトの分析や過去購買データからの予測などによって企画されていたが、データや調査には立ち現れない「みんなが求めるべき」というところから調査やデータに惑わされずに創作者の”思い込み”で作られたIphoneの登場とゲームチェンジにより、大きくこれまでの型を変える必要が出てきた。またソフトウェアの方でも技術進化により「どうつくるか」よりも「何をつくるか」に戦場が移り、かつその戦いのスピードが加速しまくってきている今においては、調査する時間があれば「みんなが求めるべき」と考えるものをいち早く作って出して確認するという企画の仕方が全盛であり、あるいみ「センス」の戦いともなっている。

この大きな変化と新しいが拠り所の無いプロセスをどの様に表現し分析してフォーマットにしていくのかという所で「アート」が脚光浴びているのだとおもう。

しかし、それで興味をもって「アートシンキング」の話しを見聞きすると、どうも「言語化できない」プロセスをアートと呼んでいるに過ぎないように思われる。「アートシンキング」の文脈の中で、既存のビジネス手法との違いを説明されるとかならず「右脳的」「直感的」「顧客ドリブンではなく自分ドリブンで欲しいものを考える」みたいな話が出てくるからだ。

しかし、アートは論理的でそして、必ずしも作家個人の欲望ありきで創作されているわけでもない。その作品ががアート足り得ると考えられる構成要素にそれらはまったく勘案されないだろう。端的に言えば社会や世界への視座だったり美術史の更新への挑戦だったりという文脈が問われるものなのだと考えている。

ビジネスが「市場」と対話するものであるとすると、アートは「歴史」と対話するものとも言えたり言えなかったり。「自然風景を模写するのがアートなんであれば、今の現代人における自然風景は山をいつまでも書いているんではなく、スーパーに山積みされているカンペール缶を書くべきだ、それが自然風景だろ」という論理でアートの画題や販売方法に対して、大量生産大量消費社会へのアイロニーとともに更新を突きつける戦いをしかけるとか、そもそもビジネスを営む行為自体を疑おうとして問いを建てるとか、アートシンキングを身につけると、ビジネスに活かせるどころか廃業するという結論を出すかもしれない、それが本当のアートシンキングのような気がする。

「役に立つ」という指標を手放したい。

さて、NFTやアートシンキングといった、最近盛り上がっているビジネス×アートについてすこし考えているところ書き連ねたけれども、その論旨はなにかというと、アートはなにかの役に立つか甚だ怪しい(下手したらマイナス効果もあるかも)という事自体に価値があるはずなので、そこにもっと視点があつまるべきだと考えているということ。

NFTやアートシンキングの功績として、これまで全くアートに興味のなかったビジネスパーソンにも興味を持っていただけたり「もっとアート知った方がよいかも」と思わせるきっかけになるという、素晴らしい効果が生まれている一方で、どうしてもアートの本質とは違うアートのイメージが再生産されている現状もあり、そのままだと結局なにも根付かずにブームとしてこれまでと同じ轍を踏んで終わるのではと危惧している。あるいみでクールジャパン政策に感じる忸怩たる思いにも近い。千載一遇の機会をみすみす逃すまいというか、この機会にもっとアートを理解し好きになってもらえる人がふえて、投機市場ではなく本当の意味でのアートマーケット、アートの関係人口が増える結果につながるといいなと思う。

それには、「役に立つ」という指標を手放した上で、アートをビジネスパーソンに伝え興味を持っていただくという挑戦が必要なのではないか。
NFTは「資産形成にアートが役に立つ」であり、アートシンキングは「あなたのビジネスの発想法にアートが役に立つ」ということがベースにあり、その「役に立つ」という接着面があるからこそビジネスパーソンに興味を持ってもらえるというところがあるが、近視眼的には何の役に立つか不明瞭だという事にこそ意義があるアートを無理に「役に立つ」というビジネスパーソンの指標に合わせに行くからミスリードが生まれてしまうように感じる。

アートが持つ、「役に立つかはわからない」という魅力と、単に楽しいという魅力でビジネスパーソンに興味を持ってもらえるノードをこれから作ってゆきたいなと思っている。

ちなみに、その1つのアクションとして、MOTION GALLERY CROSSINGの4月号の特集テーマを『見える音、聞こえる風景』とし、字幕・音声ガイドをはじめとするインクルーシブな取り組みや、音を用いたインスタレーションなど、文化芸術への多様なアクセスが生まれているなかで、アートや舞台・映画・映像などにおける「聞くこと」「見ること」の関係について、橋爪勇介さん(ウェブ版「美術手帖」編集長)と、篠田栞さん(THEATRE for ALL LAB編集長/ボイスパフォーマー)をゲストにお迎えしてお話を伺った。

アートのジャーナリズムを日本にも浸透させたいという想いから2017年にスタートしたウェブ版「美術手帖」と、
映画・舞台・映像メディアなどへの字幕や音声ガイダンスといったアクセシビリティに特化した劇場という特徴を持ち、人に障害があるのではなく鑑賞に障害があり、何かを観ることに対する困難を、当事者や作り手を交えたディスカッションを重ねてクリアにしていくクリエイティブな取り組みとして今年2月にスタートしているTHEATRE for ALLの両者に、今までもアートや舞台などに触れてきていない、触れられなかった人たちに、どうやって作品を届けるか、という点について非常に面白いお話が聞けたので、是非ご視聴いただきたいと思っている。




昔、アートやカルチャーについて「市民権を得ていないのだから、市民権を得られる様に認知を広げれば善なのだ、その過程で少し噛み砕きしぎて誤解がはらんでもわかりやすく広く興味持たれる伝え方をすればいいのだ」という理屈で、まじか・・・と音を上げてしまった「アートを大衆に紹介する」という大義を掲げた、内実は曲解に曲解を重ねたことで成立している見世物のような酷いテレビ特番を全面擁護していた某広告会社のサラリーマンと言い合いになってしまったという青臭い記憶があるが、その喧嘩から10年以上たった今、その多くの人が見たテレビ特番を契機に、そのアーティストや現代アートそのものに興味関心を持った人が生まれたとは聞いたことが無い。むしろ番組自体覚えているひとなんて本当に居ない状態だ。つまりその番組があってもなくても影響はなく、むしろその番組でアートを毛嫌いするようになったひとすら居た可能性すら考えられる。すくなくとも僕は小学生の時にとあるアーティストを面白おかしく見世物にしていた番組を見てアートを敬遠するようになったクチだ。

本当に正しい形でアートの関係人口を増やすことは、社会を豊かにすると信じて疑わない僕にとって、この数十年の輪廻を断ち切るにも「役に立つ」という指標から離れ、「わかりやすさ」に委ねない形でアートの広げ方を考えていきたいと思う。




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