「科学」を貫くこと:「量子コンピュータ」報道をきっかけとして

下記の量子コンピュータに関する報道で、対象となる具体技術の是非や量子かどうかについては私は検討もしていないし、論じるつもりはない。

 ただし、科学的な提案や主張に関する一般論としては、注意しなければいけない面があると思う。

https://www.asahi.com/articles/ASL3R2S5QL3RULBJ001.html?ref=newspicks

科学は反証可能性が本質である(検証ではない、反証である)。これは100%の検証は原理的に不可能だからであり、ポパーが科学の本質を表現したものである。後に相対論や量子論でニュートンの力学が不完全だったことが分かったからといって、ニュートンの発表が早すぎたという論法は成り立たない。しかし、後に反証可能な説を提示することは人類を進歩させるからニュートンの態度は正しい科学的なものである。

  同様に、注目する効果(量子効果)が効いていると提案者が考えており、そのためのエビデンスがあり(エビデンスがあることと完全な検証とは全く異なる)、それ以外の可能性(量子効果が効いていないという反証)については、第3者が反証可能な形で提示されるならば、個人的には注目する効果(量子)という名前を付けて、今後の様々な反証を続けるというスタンスが科学的な態度ではないか。反証されたら、その説は間違っていたということで人類は一歩進歩する。これが科学的な方法である。後に反証されること(後に間違いと分かること)自体は悪いことではないというのが科学的な考え方である(検証の広さや深さによって「仮説」ということが説明や名前に添えられても良い。しかし、仮説とついていなくとも、すべての科学理論はその意味で仮説である)。

 これはデータの改ざんやねつ造などとは全く異なる問題である。

  完全な検証を求める素朴かつ幼稚な(非論理的な)議論が、科学的な方法論を押しのけて、日本では起きやすくなっていないかを心配する。いわゆる「空気」の論理である。ネットにより「空気」が科学を押しのける危険が増えている面もある。

国の予算が投入される件であっても、むしろ国の予算が投入されるからこそ、人類が積み上げてきた科学的な方法論に愚直にこだわることを期待したい。

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