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「思想が強い」ってどういうこと?

今日は国葬それ自体についてではなく、国葬に反対する人々、または現政権の体制に対して批判的な意見を持つ人に対して向けられる「思想が強い」という言葉について話したい。

「思想強い人」ってフレーズを最近よく聞く。主に、「近寄りたくない」「極端な考えを持った危険な人」という意味合いを込めて使われることが多いように感じられる。「思想強い=悪(ネガティブ)」というのならば、その逆は「善=思想弱い」ってことだと仮定しよう。もしくは、「思想ゼロ」であることが理想とされている世界での「常識」なのだろうか。

自分はこの言葉に強烈な違和感と不信感を抱いている。「思想の強い人」って言葉の意味説明してもらえますか?って聞いたらどう答えるんだろうか。単に「権力には逆らってはいけない、疑ってはいけない」って教育を刷り込まれてるから「(もう決められたことに反対するのは)なんとなくいけない感じ」って思っているだけなのではないだろうか。

そもそも、「思想」とは?という話だし(意見?政治的知識?敵対心?)、「強弱」の問題なのか?というツッコミは置いておいて、最終的には「権力に逆らう発言をしてはいけない」って抑圧しているだけなのだ。

「国葬はするべき」と思ってる人、「国葬反対」の人を「思想強い」と呼ぶ理由は 1)自分の考えは自分で説明できないから「なんか色々言ってるしよくわからない人がいる」 2)「もう決められたことなのに変えようとしてる姿勢が理解できない」 、要は「自分の意見があって意思が強い人」を非難したい、ということなのではないだろうか。

「政治の話したくない・聞きたくない」→「自分のタイムラインにそういう話流してくるな」→「そういう邪魔なことしてくる奴は「思想が強い」→「思想の押し付け」 というのが、発言をする人に対して向けられる「抑圧」のいつもの流れだ。でも人間であり社会で生活している以上、意見も思想も権力に都合の悪い価値観も普通にある、という事実を発し続けたい。

「何も考えてない」または「何も考えていないかのように振る舞う」ことが善であり、それ以外は悪とされる社会を自分たちで作り上げていることに気づかないものだろうか。

「思想が強い」とは、根拠に基づいた自分の意見があって、それを発信し、議論をする意思があるということと同義だ。むしろ褒め言葉として捉えていきたい。


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