マーケティングだけ勉強しても、マーケティングできるようにはならない〜その(2)〜
「マーケティングが出来る」とはどういうことか、の構造を考えるために始めた本記事。
前回はマーケティングを下のスライドの様な四階層
に分け、手始めに「仕事のOS」階層の「メンタルモデルを操る」を解説してしました。
*前回の記事は、こちらです。
第二回の本稿では、「仕事のOS」階層の「関係性で観る」について考えてみたいと思います。
まずはじめに。この写真の商品について、ちょっと考えてみたいと思います。
言わずとしれた「箒(ほうき)」です。
もし筆者が「箒」は周りとの関係性で成り立っているものだ、と申し上げたら、読者の皆さんはどのように思われるでしょうか?
でも、箒を、箒たらしめているものは、周りとの関係性に他なりません。
例えば「床」がなければ、箒は活躍する場所を失います。また床の上に「埃」や「細かいゴミ」がなければ、箒は活躍する対象を失います。
さらにその柄を持って床を掃く人がいなければ、箒は機能しませんし、第一人がいないと箒が機能した状態を求められることもないわけで、その存在意義を失います。
この様に考えると、箒を箒として成立させているのは、箒単体ではなく、周り(床やゴミや人)との関係性の束である、ということがわかります。
さらに一歩すすめると、「床」は「壁」や「天井」がないと意味を持ちませんし、「細かいゴミ」はその源、例えば「紙屑」なかったりや「ティッシュペーパーを紙屑にしてしまうネコ」がいなかったりするとこの世に存在し得ません。
この様に考えていくと、箒のみならず、全てのものはその周囲との関係性で成立しているし、あらゆるものは直接的・間接的に繋がっている、ということが直感されます。(「全て」を論証するのは難しいので、ここでは「直感」という表現を使っています。)
ところで、箒を持たない文化の人が、どこかの店頭でたまたま箒を見かけたら、どのようなものだと解釈するでしょうか?
常夏のA国ではうちわのように暑いときに風を送るうちわ的な道具?
長寿のB国では痒い背中を掻くためのマゴノテ的な道具かもしれません。
ここでうちわだマゴノテだを引き合いに出したのは、単に筆者が「箒を掃除以外に使うとしたら」と無理やり考え、箒のフォルムから似ているものを列挙したわけですが、実際、箒というメンタルモデル(メンタルモデルについては第一回の記事をご参照ください)を持たない人であれば、プライマリーでマゴノテやうちわ的な使い方を想起するかもしれないし、マゴノテやうちわを持たないC国の人は、我々がそのメンタルモデルを持たない全く別の道具として認識するかもしれません。
その場合、我らが箒は、避暑コーナーで陳列されたり、痒み止めの横に並べられたり、はたまた想像もつかない売り場に積み上げられたりなる様になる、というわけです。
物理的に全く同じものでも、どの様なメンタルモデルを持ってみられるか、によって、それがまとう関係性の種類は全く異なってくるし、それにより物が持つ意味も変わってくる、という次第。
さて。
読者の皆さんが商品・サービスの担当者だとして、これって考え所だと思われませんか?
箒とマゴノテほど奇想天外ではなくとも、全く同じ商品が、通常の想定と異なる環境におくことにより、それまで違う関係性の束の中に組み込まれ、それまでと異なる価値を持つことは十分にあり得ます。
ビジネスのもっと前段階、開発段階で。
その出発点のなる自社の優位性、これには技術的なこと、バリューチェーン的なこと、既存のブランドイメージ、などなどいろいろなことが含まれますが、これらがどんな人の周りや市場の中で、どんな価値を持つか。
この思考実験は、戦略のプライオリティを考える上で、有用そうです。
ビジネスを始める時、さらなる成長を希求したいとき、踊り場に直面してしまっている時、などなど。自社商品やブランドを「関係性の束」という解像度で見てみると、それまではなかなか思いつきにくかった着想が得られるかもしれません。
ちょっと議論の方向を変えて。こちらの画像をご覧になってみてください。
ギリシャの街並みに、筆者の似顔絵のサインがあるのが一目瞭然でみて取れるのではないかと思います。この様に写真で見ている分には、多分100%近い認知が取れるのではないかと思いますし、実際にこの場所を歩いてもらう場合でも、かなり高い視認性が期待できるでしょう。
では次にこちらはどうでしょう?
こちら、新宿歌舞伎町の画像から、筆者の似顔絵を即座に探すのは結構難しいんじゃないかと思います。これが告知用の屋外サインだとしたら、視認性は先ほどのギリシャのケースに遥かに劣り、認知してはもらえないケースの方が多いのではないか、という気がします。
上記2つの例では、同じサイズの画像に同じ似顔絵を貼っていますが、似顔絵の周りがどんな環境になっているかによって、それに対して割り当てられる注意・関心は全く異なります。
これを一般化すると周囲との関係性によって、全く同じものに対する認識や評価が伸び縮みする、というなりますよね。
歌舞伎町を歩きながら、どの店でご飯を食べるか迷っている人の立場になって考えてみると、あまりに多くの告知があり、どれに着目して良いかよくわからない状況なんじゃないかと思われます。なのでそれぞれの店舗としては、自店の強みをインパクトのある表現で謳うとか、看板を大きくして視認性を上げるとか、複数の看板を準備して接触頻度を上げるとかいった措置をとるとか、少しでもお客様の目線に立ち、いかに印象に残るかに全力を投入するわけです。
ここでちょっと注意を促したいのは、ビジネス上の競合とコミュニケーション上の競合は違う、ということです。
歌舞伎町の写真には非常にたくさんの看板が写っていますが、ビジネス的に考えると、例えば飲食店の競合は、飲食店か、せいぜい食べ物・飲み物を販売している店に限定されるように思われます。
しかし、コミュニケーション的に考えると、街で看板を出している事業者全てが競合になります。なぜならば人は多くの情報から複数のものに注目するのは苦手な生き物であり、その結果同時に人の目に入る告知物は、そのすべたの間で限られた注意・関心を奪い合うことになるからです。
この点は、そのままマーケティングコミュニケーションの設計にも当てはまります。どんなメディアでお客様との関係構築を試みるのであれ、読者の皆さんの発せられるメッセージは、そのメディアに載っているコンテンツ全てと競合しているのです。
コミュニケーションの設計者たるもの、この点をきちんと認識し、お客様の立場に立った仕事をしたいものです。
この点については、接触頻度の大切さなど、「マーケのOS」レベルでも大切なポイントがあります。この連続記事の後半の方で詳しく考えていきたいと思いますので、よかったらご一読くださいね!
最後に。このシリーズの記事は、本コラムも収録されているマガジン「マーケを勉強しても、マーケできるようにはならない」の中に書き溜めて行きますので、よかったら購読お願いします!
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