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結局はみんな「自由に働きたい」

あの人自由だよね、の「自由」と思想信条の「自由」


以前ドイツの友人と話しているときに、ドイツ語の「freiraum(フライラウム)」をどう日本語に訳すか、という事で議論になりました。frei(フライ)は自由、raum(ラウム)は空間なので、そのまま訳すと「自由な空間」となります。しかし、辞書の例文を見てみると、この言葉の使われ方はとても多彩です。ときに「余白」だったり、「一人の時間」だったり、「誰かの好きにやらせる事」だったり。その言葉の広がりまで含めて訳すなら、日本語だと「自由」がふさわしそうです。英語だと「feel free(くつろいでごゆっくり)」などという時のfreeでしょうか。

ところが、ドイツ語で「自由」を表す言葉は他にもいくつかあります。例えばfreiheit(フライハイト)は、直訳すると「自由な状態」という意味ですが、これは英語でいう「リバティー」のような自由です。「自由の女神(Statue of Liberty)」の「リバティー」ですね。もう一つのungebundenheit (ウンゲブンデンハイト)は、英語でいうとフリーダムです。これもまた日本語にすると「自由」とする他ありません。

リバティーは、自由の女神がアメリカ独立のシンボルである事からも解る通り、「束縛や拘束からの自由」というニュアンスを持っています。フリーダムは、free(自由)+dam(国)なので、もし自由の国というものがあったとしたら、そこで生きる人が謳歌するであろう自由、というイメージです。リバティーは「◯◯からの自由」、フリーダムは「◯◯への自由」と表現される事もあります。

日本語では、こうしたものが全て「自由」という言葉でひとくくりにされてしまいます。「今日の午後は自由(free)だ」。「自由にしてください(fell free)」。「思想信条の自由(freedom)を守る」。「独裁政権を倒して自由(liberty)を勝ち取る」。これらがみんな同じ「自由」になってしまうのです。どんな文脈でも自由について語ると、論点が噛み合わない議論になる事が多いのですが、その原因の一つはこの言葉意味の広大さにあるのではないでしょうか。

「自由に働きたい」というときの3つの自由


「自由に働きたいので会社を辞めてYouTuberを目指します」。「自由に生きていたいのでFIREを目指して準備中です」。こう宣言すると、周りには眉をひそめる人もいるのではないでしょうか。やめておけ、と善意で注意してくれる人も出てくるでしょう。そうして反対されながらもYouTuberを目指し、実際に成功して自由を手にしている人も一方でいるでしょう。このとき、それぞれが思い描く「自由」という言葉が、実は全く違うものを指しているかもしれません。

「自由に働きたい」というとき、実はそこには、大きく3つの自由があると考えます。

  1. ストレスや嫌な事からの自由(free的な、余裕・余地・余力)

  2. ルールやしきたりからの自由(liberty的な、◯◯からの自由)

  3. 大切していることを大切にし続ける自由(freedom的な、〇〇への自由)

まず1.の自由について考えます。上司にあれこれ指図されたくない、毎日不条理な事が多くストレスを感じる、だからそういう事から自由になりたい。そんな理由でYouTuberやFIREを目指すなら、それは確かにやめておいたほうがよいかもしれません。嫌な事や不条理な事、それらから感じるストレスは、結局どこにいってもつきまとうからです。自宅にこもって動画作成をするにしても、隣人問題でストレスを抱えるかもしれません。億万長者になって孤島に豪邸を建てても、そこで毎日食事に気をつけ運動をしていたとしても、理不尽な体調不良に見舞われる可能性は誰にも拭い去れません。

次に2.です。みんなのために作られたルールやしきたりが、自分には合わず自分の良さが十分に発揮できていない。そう感じる人もいるでしょう。働く場所や時間に縛られず、自分の裁量で仕事をしたほうがより能力を発揮できる。そのような確固たる自信があるのなら、そうしたルールの外に飛び出すのも一つの手です。独立したりフリーランスになったり、です。もっとも、そこから飛び出してパフォーマンスが向上するのは、すでに自分の手についている職の話です。これまでできなかった事、例えば話術で多くのYouTubeユーザーを引きつける事などが、ルールの外に飛び出した瞬間にできるようになる、ということはまずありえません。

また、今あるルールの外に飛び出したからといって、決して全ての決まり事から自由になるわけではありません。独立したら税金や社会保険のルールには、会社を通してではなく自ら向き合う事になります。顧客や出資者がいればそのルールに従う必要があるでしょう。加えて、ルールから飛び出す前はそう思えても、実際に自分のパフォーマンス(=収入)がそれで向上する保証はどこにもありません

自分が大切なものを自分で選び取る自由


ここまで「ストレスや嫌な事からの自由」「ルールやしきたりからの自由」の話をしてきました。そういった自由を追求するために、YouTuberやFIREを目指したり独立することに、少し否定的な意見を述べてしまったかもしれません。しかし、私は、それらを目指すこと自体には賛成の立場です。それが3.の自由、つまり「大切なものを大切にし続ける自由」を追求するためなのであれば。

生涯で子供と過ごせる時間は、母親が7年6ヶ月、父親は3年4ヶ月というデータがあります。関西大学社会学部の保田時男教授の試算によるものです。例えばこの時間を少しでも多くすることが、人生で何より大切な事なのだと考える人がいたとします。YouTuberやFIREがそれを叶える一つの手段なのであれば、そんな人がそれらを追求する事には、それが茨の道であれかけがえのない価値があるでしょう。

障害のあるお子さんとの時間を一番に考え、大企業の要職を捨ててフリーランスになった友人がいます。子会社の社長を任されるまで社内で評価され、将来を嘱望されていたその友人が追求したのは、嫌な事を避ける自由でも、自分を縛るルールの外にでる自由でもありません。自分が大切なものを大切にし続ける自由、大切なものを自分で選び取る自由です。この友人の姿こそが、本当の意味で「自由に働く」という事である。そう私の目には映ります。

それは決して平坦な道のりではないでしょう。道なき道なのかもしれません。しかし、自分が大切にするものを選びとる自由を行使するその友人はとても輝いています。ミュージシャンになりたい! スポーツ選手になりたい! と夢を振りかざしていた10代・20代の頃、多くの人がこのような自由を持っていたのではないでしょうか。ただ、いつしかそれを忘れてしまい、次第に不快や束縛「からの自由」に思いを馳せるようになります。そうした自由を周りから否定され、自分でも後ろめたく感じるようになって、終いには大切なものを追求する自由をすら自ら否定してしまう。いわゆる「中年の危機」はそんなところから来るのかもしれません。

「大切なものへの自由」を追求するために個人と企業ができること


でも、私たち中年世代も、決して「大切なもの」をなくしてしまった訳ではありません。若い頃の夢とは少し形が違うかもしれませんが、それぞれが大切な何かを胸に抱えているはずなのです。そうして大切なものを自分で選びとる自由を行使するために、個人が取れる選択肢はここ数年で飛躍的に増えました。副業やフリーランスを含め働き方が多様になり、YouTuberなどの新しい職業も誕生しました。そんな時代に個人がまずするべきことは、何より「自分が本当に大切にしてる(したい)もの」を見つめ直す事ではないでしょうか。

そして、それを大切にし続けるため、あるいはこれから大切にしていくために、働き方においてどのような選択肢があるかを全てテーブルに並べてみるのです。そんな中から、もっとも自分が自由になれる働き方を選び出します。ここでいう自由は、もちろん「ストレスや嫌な事からの自由」でも、「ルールやしきたりからの自由」でもありません。むしろよりストレスがたまり、より制約や束縛の多い選択肢であっても、自分にとって大切なものを自ら選び取る自由です。

人材を採用し維持しようとする企業視点でこれを見るとどうでしょうか。大切なものを自ら選び取り、追求する選択肢が増えてくるなか、優秀な人材を獲得し維持するためには、束縛や拘束「からの自由」を提供するだけでは不十分になってきています。自分が好きなプロジェクトに一定の時間を使える人事制度や、パーパスを掲げ賛同する人を集める経営スタイルなどはそれを象徴しています。最近増えている「ジョブ型雇用」は、従来の「メンバーシップ型雇用」より、自分が大切にしていることへの自由を追求しやすい雇用形態とも言えます。

結局はみんな自由に働きたいのです。

でも、その自由には、「どうぞ自由にしてください」から「思想信条の自由」までの広大な振り幅があります。

そうして自由をひとくくりにしてしまう大雑把を、おおらかさ・懐の深さと逆手にとって、誰かが主張する自由、そしてまず何より自分の自由をもう一度見つめ直してみる。そんなことが、社会を覆うこの閉塞感を打ち破る第一歩なのではないでしょうか。

#COMEMO#NIKKEI

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マーケターのように生きろ: 「あなたが必要だ」と言われ続ける人の思考と行動

<参考文献>
ジョブ型雇用とは 賃金、職種の価値が左右


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