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「できない理由」を探していませんか?

最近気がついたことがある。オンラインでもオフライン(対面)でもそうなのだが、私の「こうなったらいいのになぁ」という話に対して、そうならない・できない理由を解説してくれる人が多いことに気がついた。いや、ひとごとではなく、自分も無意識のうちにそうしているのかもしれない。

「こうなったらいいのに」という話は、たいてい自分たちは当事者ではなく第三者としての話題なことが多いから与太ばなしの域をでないわけで、いちいち難しく考えるようなことではない、と言われればその通りなのだ。

ただ、第三者としてであっても、なんでそう反応するのかと考えてみると、ひょっとして自分が当事者の時にも「できない理由」を探したり考えたりするクセがついてしまっているからかもしれない。

仮にそうであるなら、普段から当事者としても、私たちは無意識のうちにできない理由をさがして、現状維持を図るクセがついてしまっているのかもしれない。

失わわた「数十年」が、そろそろ30年になり、このままいくと40年になるのでは?という勢いの我らが日本だが、「失われた」ということの中身は、「変化しなかった」ということであり、それは「できない理由・やらない理由を探し続けた」ということでもある。

かくして、とても優秀な人、やれる方策を探す能力がある人から、できない理由を説明されることが増えた。そしてやれる方策をさがす過程の試行錯誤も「失敗」とされ、何もしないことが「大過なく過ごす」ことになってしまった。そんな仮説を持っている。

2ちゃんねるやニコニコ動画を作ったひろゆき氏が、こんなことを言っていた。

――例えば、ひろゆきさんのようになりたいという人がいた場合、アドバイスはありますか?

僕がそういうことを言ったとして、“やらない理由”を作る人が多いんですよね。例えばサイトを作ろうと思ったら、ググって調べて自分の手でやってみるっていう、至極当たり前のことすらしたがらない人が多い。その作業をする前に『似たようなサイトがあるから、僕がやってもしょうがない』『プログラミングって難しそう』みたいなことを言う。人間って、“やらない理由”はいくらでも作り出せるんです。だから、まずはそういう思考にならないことですかね(笑)。

実は、この原稿は当初「できない理由より、やれる方策を探そう」というタイトルで書き始めた。でも、いきなりそれが出来るくらいならすでにそうなっているのだろうな、と思い直してタイトルを変えた。

なくて七癖という。まず、何事につけ、やれない理由を考えたり話したりしていないか、自分のクセに気づき、意識するところから始めたい。自戒をこめて。

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