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オンライン授業はいかがですか?

新年度が始まりました。

春はいいですよね。

新緑に溢れ、陽光が眩しく、キャンパスは不安に戸惑う新入生で満ちている。おそらくそれは新緑が新しい生命の息吹を感じさせ、新入生が新鮮な空気をもたらしてくれるからかもしれません。

そのような躍動的な春は、今年も大学のキャンパスには訪れませんでした。

4月29日から、三度目となる緊急事態宣言の発令を受けて、都内の多くの大学はやむを得ず、授業形態を変えることを決めました。

私の勤務先の大学では、いまのところ授業について対面とオンラインの併用が続いています。より具体的にいうと、大教室での講義は基本的にオンラインでの授業として、少人数のゼミや演習科目などは対面での授業が可能となっています。ただし、健康上の理由などで、教室での対面授業が困難である場合を考慮して、基本的にはオンラインでも授業がうけられるようにすべての履修学生に配慮をしなければなりません。

コロナ時代の前に大学を卒業した多くの人たちにとって、コロナ禍の中の大学がどのようなものかなかなか想像しにくいのだろうと思います。人間は、自らの経験、とりわけ若いときに自らが体験したことをもって、それをスタンダードとして考える傾向があります。ですので、オンラインで授業を受けることを可哀想だと考えたり、十分な教育効果が得られないのではないかと懸念をしたりすることは、自然なことなのだろうと思います。自分たちが経験したことを今の学生が経験できないことを、可哀想だと同情する傾向が非常に強いということです。

私の勤務先の大学でも昨年度のコロナ禍のなかでの授業について、意識調査や授業のアンケートを行って、学生の皆さんがどのように新しい環境を受け止めているのかを、調査しています。その結果として明らかになったことは、私が当初思ったほどには、学生たちはオンライン授業を嫌っているというわけでもなければ、抵抗を感じているわけでもない、ということです。

おそらく学生たちにとって抵抗を感じているのは、対面授業が一切なくキャンパスに入れないということや、そこで友人たちと会うことができないということ、さらには学生生活にさまざまな制約がある、ということだろうと思います。ですので、たとえば全ての授業を対面授業にしたところで、キャンパス内で友人同士で会話をしてはいけないだとか、授業以外ではキャンパスに入ってはいけないだとか、あるいはいっさいの部活動やサークル活動を禁止する、ということであれば、対面授業を完全に再開したところで、必ずしも学生がみな幸せになるわけではないのだろう、ということです。

他方で、オンライン授業に向いている授業と、やはり対面でないとどうしても教育効果が得られないような授業と、色々なケースがあるということが分かってきました。ですので、対面がより効果的な授業は対面で、そしてオンラインがより効果的な授業はオンラインで、というようなかたちが、おそらくはポストコロナ後の大学においてもある程度は残っていくのだろうと思います。

そもそも今の子供たちは、最も憧れる職業がYouTuberだというぐらいですから、スマホで動画を見るということはもっとも日常的な生活の一部になっています。高校時代の塾でも、すでに多くのところで動画を教育に取り入れています。ですからそのような動画を使った教育は、すでにコロナ禍の前から、今の学生たちにとってはそれほど違和感はないのだろうと思います。オンラインでの授業は、したがって、それなりに学生にとっても快適で便利なのかもしれません。

それと同時に、大学教員もオンライン授業をする上で、もっともっと工夫をしないといけないのだろうと思います。ですので、私が大学で教え始めた頃は、テレビ番組の「踊る!さんま御殿!!」や、同じく明石家さんまさんが司会をする番組「恋のから騒ぎ」を見て、よりスムーズな授業の進行を研究しましたが、今はむしろ、人気のYouTube番組を見て、よりよいオンライン授業の教材を考えています(まだ活かされていませんが)。

私が大学で教え始めた頃は、すべての授業を黒板やホワイトボードを使って行っていました(なので、授業のあとは、チョークの粉で、よく洋服が白くなっていた)。またプリントを人数分コピーして配布してましたので、毎回授業の前にはコピー室に通っていました(毎週、300人を超える履修者の分のコピーを刷るのが、けっこう時間がかかって面倒だった)。ところが今ではパワーポイントのスライドや、クラウド上に資料をアップロードすることがあたりまえとなっています(楽です)。すでにコロナ禍の前から、授業を取り巻く環境は大きく変化していたのです。

つまりいま教育の現場が直面している問題の本質は、どのような組み合わせが大学教育でベストなのかを、必ずしもこれまで十分に検討をしてこなかったことであり、日本社会全般がデジタル・トランスフォーメーション(DX)が遅れていたことであり、さらには多くの年長の人たちが自らがかつて大学の授業で経験したやり方が唯一絶対であるという、一方的な先入観を固定的に持っていたことなのだろうと思います。それらが今や、崩れつつある。

他方で、私のゼミでは毎年、春学期には新歓合宿と新歓コンパ、そして春学期の終わりには打ち上げてゼミ生のみんなでディズニーシー、また夏季休暇中は伊豆の海での夏合宿、そしてそこでの恒例の花火大会の見学、さらには冬には京都の大学の先生方のゼミとの合同合宿での京都訪問とそこでの散策と、色々と思い出深いイベントを行っていました。コロナ禍でそれらができなくなったことは、とても大きなダメージです。これらは、オンラインでは楽しめませんので。

コロナ禍で、何ができて、何ができないのか。何をするべきであり、何をするべきではないのか。そして、それらを適切に判断した上で、どのような授業がもっとも好ましいのか。大学の規模によって、そして授業の内容によって、それらは大きく異なるのだろうと思います。一律で価値判断をするのではなく、ひとつひとつその授業の特性を踏まえた上で、自ら主体的に、もっとも望ましい授業のかたちを摸索することが求められており、大学教員にとってはとてもタフな時代になっているのだろうと思います。

大学教員にとってもっともつらいのは、目の前で学生の皆さんの笑顔が見れないことであり、そして真剣に授業に打ち込んだときにしか見れないとてもよいかたちでの緊張感を身体で受け止めることができないことです。しかしながら忘れてはいけないのは、年をとった大学教員よりも、若い学生の皆さんの方がはるかに、新しい環境への適応能力が高いということだろうと思います。いまわれわれが体験していることは、コロナ禍による制約ということではありません。コロナ禍を受けた新しい時代への適応です。コロナ禍が去っても、新しい感染症が広がればよりスムーズにそれに再び適応しなければなりません。

できないことの数を数えることよりも、できることの数を数えることのほうが、楽しいですよね。また、困難な状況の中でも、楽しみや喜び、そしてそれがもたらす新しい社会や文化を受け止めることは、とても高い知性と柔軟性が求められます。そのような試練の中で、強く、しかしながらしなやかに適応して、全力で学生生活を楽しもうと摸索している学生の皆さんに、エールを送り、それを応援したいと思っています。そのためにも、私自身、心身ともに健康で、困難ななかでも強靱さ(レジリエンス)を維持できるよう、自らの努力も忘れないようにしたいと思います。

#日経COMEMO #NIKKEI

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