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オリンピックを巡る状況が示す、国家的な物語の不在

国家に勢いがあるときは、指導者たちがその国民に対して、多少の不利益を被ってでも、それを核にした未来を見たいと思わせる物語を示しているものです。今日はそうした「物語」が、今の日本に不在であること、そしてその不在がまさに鮮明に表れているのが、オリンピックまで二ヶ月を切った今の状況ではないか、と言う話を書きます。

1.国家と物語の関係

現在、一番強い力を持っている国家はアメリカです。2020年代にはもしかしたら中国に追い抜かれるのかもしれませんが、20世紀初頭にイギリスを抜いて世界最強国になったアメリカが、それから100年経ったこの21世紀になってもいまだに強い力をかろうじて保てているのは、歴代の指導者たちが、常に国民に対して「物語」を示してきたことがその理由の一つです。それが例えトランプ大統領のような、明らかに他国から見たら「この人ほんっとに大丈夫?」という人が出てきたとしても、彼らは自らの言葉で国民に、その心に描くべき未来を「物語」として提供します。

国家における物語とは、平たく言えば共同幻想なんですが、それがなければ国家は進むべき道を見失って、目先の浮き沈みに過剰反応し、無駄なリソースが消費された挙句、気づいた時には周りの国に置いてけぼりにされていきます。今の日本が、アジア圏においていつの間にか最先端ではなく、むしろ周回遅れになりそうになっているのは、おそらく高度成長期以後、特にバブル崩壊以後に、適切な「物語」を提供する指導者があまりいなかったからだろうと感じます。

2.オリンピックをめぐる「物語の不在」

こうした兆候は、国家の様々な位相において混乱と衰退の兆候として現れるものですが、それが今最も先鋭に現れているのは、オリンピックに対する政府と分科会の間の意見の齟齬でしょう。数日前、新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長である尾身氏は、今の状況での五輪開催に関して「普通はない」と答弁しました。

これに対して日本政府が即座にネガティブに反応した、という状況です。

この対立自体は問題ではありません。むしろ、こうした対立が表面化するのは、本来活力ある政治にとっては望ましい状況のはずです。ただ、こうした対立が生まれた時に、いまだに主催者や指導者が、オリンピックをこの状況で開催するに際して、既存の物語枠組みしか提示し得ていないところに、根深い問題があると感じるんです。

例えば、五輪開催に対して「犠牲が必要」発言で大バッシングを受けたバッハ会長は、


「206カ国・地域と難民選手団のアスリートが一堂に会す時、東京から世界に向けて平和、団結、立ち直る力という力強いメッセージを発信することになる」

と述べ、また菅首相は


「まさに平和の祭典。さまざまな壁を乗り越える努力を世界に発信していく」

と述べるに止まっています。

平常時にはこれでも「オリンピック」を支える物語として機能するのは、それほどに「オリンピック」の長い歴史が紡いできた、それ自体の「物語」が強いメッセージ力を持つからなんですが、今は緊急事態です。文字通りの。

そうした状況であるにも関わらず、主催者も指導者も、平常時の「物語」がすでに機能不全を起こしていることに気づかず(あるいはあえて無視して)、その結果、多くの国民がオリンピックをめぐる事態を「我がこと」として受け入れられない状況にあるということを、捉えきれていないのだろうと感じます。オリンピックについてのメッセージを語る顔が、全然僕らの方に向いていないように感じるわけです。

だからこそ、母国での開催のオリンピックであり、しかももう開催まで二ヶ月を切っているという状況なのに、まさにその国に住んでいる僕ら国民にとって「一体誰のためのオリンピックなんだろう?」と、他人事のような空虚感が漂っているのではないでしょうか。

3.緊急時に必要な物語

緊急時には、緊急時の物語が必要で、それがなんであるのかは僕にはわかりません。でも、少なくとも、この緊急時においてオリンピックを敢えて開催するならば、状況を無視したポジティブな成果だけを絵空事のように語るのではなく、多くのリスクをしっかり提示すべきなのでしょう。例えばオリンピックを開催しなかったときに被る長期的な経済的不利や、開催後に考えられうる感染状況の予測などを、専門家たちの提言に基づいて指導者が包み隠さず伝えるべきなんだと思うのです。そのような「ネガティブな要素」をしっかり提示した上で、「それでも開催すれば未来にこれだけのものが残せる」というメッセージを発信する。そして僕ら国民が、「多少のリスクやその後のネガティブな影響を織り込んでさえ、それでも未来へと資する可能性がある」と腹落ちした時、初めてこの「緊急事態におけるオリンピックという物語」が機能し始めるはずなんです。国民を信頼するというのは、おそらくそういうことのはずです。

しかし、緊急時にこそ必要なこうした信頼を基盤にした「物語」は、今の所指導者や主催者から発信されているようには見えません。尾身会長がいう、「いったい何のためにやるのか、しっかりと明言するのが重要だ」というメッセージは、まさに我々国民が共有しうる「物語」を、きっちりと指導者が提供しなさいという提言だったはずですが、発信される物語は僕らの方には向いていません。それどころか、開催が近づくにつれて一層先鋭化する「物語の機能不全」を隠すかのように、「開催ありき」のウルトラポジティブな空論だけが流通しています。

もちろん、ここからどういうふうに物事が転ぶのかは僕にはわかりません。もしかしたら河野大臣が強力な指導力を発揮して、ロジスティックやオペレーションが劇的に改善し、オリンピック開催までにワクチンがすごい勢いで普及するのかもしれない。そうであれば、「緊急事」ではなく、もちろん「平常時」でもないにせよ、今のような誰もが道を見失っているような状況からは脱せるのかもしれない。そういう風になってくれたらなあと、僕も強く強く願うんですが、さて、どうなるのか。不安は残りますね。

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