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「コミュニティ」とは「困難」と「悩み」を共有し、どこかで受け止めるための信頼の網の目なのではないだろうか 〜「地域包括ケア」から学んだこと

お疲れさまです、uni’que若宮です。

先日、肝付町地域包括支援センターさんと白十字在宅ボランティアの会の共催で開催された、「多職種・地域包括ケアオンライン学習会」というのに参加しました。

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(鹿児島県肝付町は僕はたった2泊3日行っただけなのですが、前回の滞在でもとても大きな学びをもらった場所でもあります)

今日はここでお伺いしたケースから「コミュニティ」について改めて考えたことを書きたいと思います。


末期がんと向き合う「地域包括ケア」に学んだ「コミュニティ」の力

実は僕自身、自社サービスのコミュニティを運営したり、色々なコミュニティに携わったり、コミュニティ的な組織(B as Community)の実験をしたりと「コミュニティ」については、組織論の観点からも色々と研究をしています。

最近ではコミュラボさんとのコラボゼミとして、「アート思考×コミュニティゼミ」というのもやっています。2期目になるのですが、コミュニティについてアート思考観点から考えるゼミです。

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「コミュニティ」という言葉はここ数年でかなり頻繁に聞く言葉になり、地域コミュニティに加え、趣味のコミュニティやビジネスコミュニティ、オンラインサロンまで、色々なものが「コミュニティ」という同じ言葉で呼ばれています。

アート思考×コミュニティゼミでは、グループやチームとはちがい、合目的性だけっでつくることができないような、異質性の触発を包含し、余白があるコミュニティについて探求しています。

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こうした観点からコミュニティを研究してきた身として、「多職種・地域包括ケアオンライン学習会」で共有いただいたケースはとても学びが多いものでした。(実在の個人のケースのため、あまり具体的なところは書けないので、イベント告知から引用します)

父は最期まで 父だった
学校を休んでゲームばかりの息子、心配する父は末期がん。父のために入った訪問看護師は「息子は父が心配で学校を休んでおり、ヤングケアラーなのでは?」と気づき、すぐに学校を訪ねて父子のことを相談しました。地域包括支援センターの保健師とともに、学校も協力してサポートに動き出し…

末期がんの父親がいるご家庭で、母親はその治療費のためもあり県外に単身赴任、息子さんは不登校になっている。こうした状況の中、地域の訪問看護師や支援センターの自治体職員、 スクールソーシャルワーカー緩和ケアナース医師、保健師のみなさんが一体となり、がんのターミナルケアと息子さんを含めた患者家族を受け止めるために奔走した、本当に感動的というか壮絶なというか、そういうお話しでした。

(ヤングケアラーは本当に個人での解決が難しい問題で、地域や社会のサポートが重要なので、今回のようなケースは広く参考になる事例だと思います)

末期がんのケースだということもあり、重く、出口の見えないような難しい状況のお話を聞き、果たして自分だったらそこにいてなにか一つでもできたのかと考え込んでしまったりもしたのですが、なによりも印象に残ったのは地域のみなさんが患者家族を思い一つになっている姿で、それがとても感動的でした。

僕はこうした福祉のことに全く詳しくない素人であり、自分にはどう解決したらいいかわからないような現場で日々社会を支えている方々には本当に尊敬の念を持っているのですが、その中でも今回のケースはとくに心に残るものでした。


①異なる専門性を発揮し、信頼しあう連携

末期がんであるお父さんは、体調がものすごく悪く苦しくとも、息子や家族の前では父親として弱みをみせないように気丈に振る舞うことも多かったそうです。

そうした父親の想いに寄り添いながら、訪問看護師の方を起点に徐々に父子を受け止めるネットワークができたことで、最初は苦痛を口にすることもなく、どうしたいという希望も言わなかった気丈なお父さんも徐々に地域のみなさんを信頼し、希望を伝えるようになったそうです。その中で出てきたのが「息子の運動会を見に行きたい」という想い。

この想いを叶えるため、訪問看護師と病院の医師・看護師が連携し、入院や退院、在宅ケアの最適解をさぐり議論を重ねます。

そしてさらに、学校も。運動会に末期のがん患者が行くのです。その場で病状が急変したりどんな事が起こるかはわからない。もしなにか問題が起こった時子どもたちに与える影響や混乱を考えても、かなりリスクの高いことですから、こうした懸念を考えれば学校は許可を出さないのが普通かもしれません。実際、当初は関係者でも反対の声があがったそうです。しかし、スクールソーシャルワーカーの方も主体的に動いてくださり、校長先生まで巻き込んで、色々なリスクに備えつつも医師・看護師同伴の上運動会を観に来てもらえる、ということになっていくのですね。

短期間で組織を超えてこうした連携をするためには、それぞれの専門性を発揮しつつも相互に信頼がなければできないことです。部門や組織を横断した連携、というのは言うは易しで、実際にやってみたことがある方であればその想像を絶する調整の難しさを知っているでしょう。特に部門や施設をまたぐプロジェクトなどでは、目的を一緒にしていても「なにかあった時」の責任の押しつけ合いになることも珍しくありません。

しかしこのケースではそうした分断が起こらず、お互いをプロと信頼して「つながることでなにができるか」だけが考えられていました。これが本当にすごいと思います。

コミュニティにおいては「共鳴的異種性」が大事、という話をよくするのですが、ちがったスキルをもつことをお互いにリスペクトし合っているからこそ、こうした連携が実現し、

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関係者はいわば一つの身体のようになっていて、(転んだ時右足が左足を責めたりしないように)「責任分解点」とか縦割りにならずに有機的なつながりとして、患者とその家族を受け止めようとしたのだと強く感じました。


②正解のない「悩み」がコミュニティを強化する

こうした連携ができるためにはもちろんそれまでの関係の蓄積も必要でしょうし、もともと信頼関係のベースもあったのだと思いますが、お話を伺っていると、ケースの困難を通じてつながりが養われ、さらに強化されていった側面があるようにも感じました。

「(ターミナル)ケア」と一言でいっても、その仕事は一定のものではありません。ケースによって様々なあり方や生き方と向き合うことであり、そこに「正解」はないのです。それは「PDCA」というように計画立てて物事が進む世界でもありません。患者の容態は急変し、予定が変わり、それでもその時その時ごとに最善と思われることを選んで実行していくしかない。これはかなり大変な現場です。

今回のケースでもお父さんの容態の変化や家族との関係について、何度も関係者で議論が交わされたとのことです。そしてこの「正解がないことを議論していく」というその過程で、信頼関係がさらに濃くなっていったのだという気がします。


の語源である「communis」が示すように、「コミュニティ」の核には「共有する」ということがあります。しかし、共有されるものは「目的」では必ずしもない、と僕は考えています。

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おなじ「目的(ゴール)」を目指すとき、集団は「チーム」になりますが、コミュニティは必ずしも特定の「一つの目的」を持つとは限りません。たとえば家族がそうですが、家族はたとえば「世帯年収を〇〇にする」とか「子供を結婚させ、子孫を繁栄させる」という共通の目的に一致団結して向かっているわけではありません。家族の成員それぞれはそれぞれの人生の目的に向かっており、しかしつながりとして支え合っている

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また、「共通の目的」がありさえすれば互いに支え合うつながりが生まれるかといえばそうでもありません。たとえば陸上の個人競技のように共通のゴールを持ちつつ競い合う敵になる、ということもあります。いや、それは個人競技だからでしょ、と思うかもしれませんが、企業では同じ目的に向かっているはずなのに、出世競争や嫉妬による足の引っ張り合いが起こることもままあります。

共有するものが「一つの目的」ではないとしたら、「コミュニティ」をただの集団からコミュニティにするものは何なのでしょうか?

僕は「(なにかを成し遂げる、という)目的」よりも「時間」や「体験」だと考えていました。しかし今回のケースを聞いてそれ以上に、大切な存在やそれにまつわる「困難」や「悩み」なのかもしれないな、と感じました。家族がまさにそうですが、困難に向き合い一緒に悩む中で、コミュニティはそれぞれがそれぞれの自発的な意思と貢献をしながらも、ひとつの身体になっていくのではないでしょうか。


③”つながりのどこか”で受け止めようとすること

「目的」的ではない故に、といったらいいのかもしれないのですが、同じ連携であっても、今回のケースでは「役割分担」をリレーする「バリュー・チェーン」とは全くちがうあり方を感じました。

どういうことかというと、たとえば「目的(ゴール)」がある場合、そこにはある矢印が生まれます。サッカーでいえばGK→DF→MF→FWとボールは運ばれ、最後に「ゴール」に入れられます。だから「チーム」すなわち、大体の団体スポーツでは「前衛」「後衛」というのがあるのですよね。

しかし地域包括ケアには前衛や後衛はなく、特定の方向に向かう矢印もありません。どこかに向かって物事が一方向的に進むわけでもないのです。

刻々変化する本人の容態や家族の気持ちに寄り添いながら、行きつ戻りつ様々な方向に事態は展開し、その時その時でその接点が変わっていきます。

こうした状況に対し、最終的につながりのどこかで受け止めようというのが地域包摂ケアのあり方だという気がしました。本人やご家族の想いや辛さを取りこぼさないように、つながりの網の目によってまさに「セーフティネット」となる。だからこそ「責任分解点」とかではなく一体になろうとする。「地域包括ケア」の「包括」とはそうしたホリスティックなあり方のことなのだ、と思いました。

これは多くの企業で理想とされてきたような「目的(ゴール)」に向かい成果を最大化する「チーム」的組織とはまたちがった組織のあり方だと思います。


コミュニティとはなにか

ふたたび、「コミュニティ」とはなんでしょうか?グループでもチームでもなく、同じ目的のためでもなく、異なる人が集まるコミュニティとは。

今回の地域包摂ケアのケースを聞いて、僕なりに「コミュニティ」の定義をアップデートしてみました。

・異なるスペシャリティがある人が集まり、相互に信頼しつつも自律的に行動し、
・一方向的な目的志向ではなく「困難」や「悩み」をも共有し、
・一つの身体のような一体のつながりによってメンバーを受け止める網(セーフティネット)


「地域包括ケア」はなにか目に見える成果や変化を起こすものではないかもしれません。むしろ刻々と変化する状況の中で、なるべく変化をしないように、平穏を保とうとするようなマネジメントです。こうしたマネジメントは(目立ったポジティブな「成果」が見えないために)過小評価されすぎてきたものかもしれません。正解がなく、変化が激しいVUCAの時代、そしてサステナブルを志向するSDGsの時代に向けて、地域包括ケアやコミュニティのようなレジリエンスの高い組織のあり方から学ぶことは本当に多いと感じています。








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