人は会社のメンバーなのか?
私事になりますが、父親は大学卒業後、ある証券会社に入社しました。新入社員以降、ずっと営業畑で仕事をし、若い頃はエスキモーに氷を売るような巧みな営業電話を、家からかけていたりしたのを覚えています。
課長になり、次長になりという中であちこちに転勤を重ね、いろいろな場所に隣人・友人が出来ました。そして45歳をすぎた頃から、本社のポジションや取締役を歴任し、文字通り「勤め上げた」という表現がぴったりくるような仕事人生を父は送りました。
9年前に父が他界した時、会社の方、かつての隣人の方、多くの人々が弔いに訪れてくださいました。
精進落としの席では、いろいろな方が父の話をしてくださいました。
高校時代からの学友の方は、酔って警察に捕まった話、学内で無許可演説をしでかして祖父が呼び出された話などを披露してくださり、自分が知らなかった父の姿を知ることができました。
しかし、それは例外であり、大半の方は、父のことを「XX証券会社の富永さん」として認識し、思い出語りをしていました。
その意味で、父はその証券会社のメンバーとして生き、亡くなっていったように思われました。
私の目からは、父は短歌が好きで、囲碁が好きで、極端に偏った音楽や文学の好みを持ち、酒を愛し、誇り高く、悔いのない人生を送った、とても尊敬できる父親だったのですが、そう言った会社以外の話はあまりでず、なんだか少し寂しかったのを覚えています。
ところで、私の父は、例外でしょうか?
いろいろな懇親会やイベントなどに出席するときに、どのような紹介をされることが多いかな、と自分の手に胸を当てて考えてみると、その時所属している会社、担当しているポジションとともに紹介されることが圧倒的に多いことに気づきます。
私に限らず、おおよそ全ての局面で、誰かが誰かを紹介するときは、所属とポジションとともに行う、というのがとても一般的な作法です。
しかし、私はこのような紹介のされ方が好きではありません。
筒井康隆さんの小説が好きである、とか、クラフトビールが好きである、とか2人も娘の父親である、とか、強調したい自分の属性はたくさんあるのに、社会の慣習がそれを許してくれないような感覚を持ちます。
私は今まで勤めた9つの会社のことは、すべて今でも愛し、そこで勤められたことは誇りを持っていますが、それでも尚このように感じます。
そして、これは従業員は会社のメンバーだ、という考え方に根付くものであり、従業員である人間の属性の過半を会社が占めるような雇用の考え方や慣習は、続くべきではない、と思います。
一人ひとりには、もっと豊かな要素や側面があります。それらにもっと光を照らし、人を多面的に、カラフルに記憶し、記述できるようになっていけば、人生や、人生の総和としての社会は、はるかに幸福に満たされたものになるのではないでしょうか。
そして、それは個人の発信を容易にしてくれる技術が実現した現代だからこそ成立するユートピア像なのではないでしょうか。
ジョブ制とメンバーシップ制を対比して雇用を考える、という今回のお題でしたが、メンバーシップというコンセプトに対して思うことを縷々述べてしまいました。
読者の皆さんは、どのようにお考えですか?