誰かの嫌いは誰かの好きかもしれない。好きな物が全員一緒の方が気持ち悪い。
別にこの広告が炎上したのではなく、これに文句を言った人が炎上したのだと思うけどね。これについては、個人的に書くつもりはなかったのだが、今日こんなニュースがあって驚いた。
大前提として思ったのが、国連の役職なら、ウクライナの問題だったり、まず喫緊に取り掛からなければいけない問題が山ほどあるでしょうに、「そこ?」という点だ。
「今回の広告は、男性にとっての『女子高生にこうしてほしい』という見方しか反映しておらず、女子高生には『性的な魅力で男性を応援する』という人格しか与えられていません。私たちが重視してきた『3つのP(Presence 多様な人々が含まれているか、Perspective 男性と女性の視点を平等に取り上げているか、Personality 人格や主体性がある存在として描かれているか)』の原則は守られていないのです。明らかに未成年の女性を男性の性的な対象として描いた漫画の広告を掲載することで、女性にこうした役割を押し付けるステレオタイプの助長につながる危険があります」
この問題となっているマンガは個人的には知りませんでしたが、内容はともかく、この広告で使われたイラスト画像だけでそこまで拡大問題視できる方がすごいと思う。そもそも虚構作品に対してそこまでいうんなら、すべての小説も映画もテレビも殺人や暴行事件は紹介できなくなのではないか?
広告を出した日経新聞に対していろいろ文句を言っているようだが、広告主である出版社には言ってないのだろうか。日経は「今回の広告を巡って様々なご意見があることは把握しております。個別の広告掲載の判断についてはお答えしておりません」と正式にコメントしている。いずれにせよ、今回の件で出版社も新聞社も取り合わないという態度を表明していることは正しい対応だと思うし、大いに支持できる。相手にしたって意味ないもん。
これに文句を言う人の意見を大体まとめると、「見たくない人の不快感への配慮が不足している」という理屈である。
日本赤十字の「宇崎ちゃん事件」を引き合いに出して、あれは献血センターで使用したことが公共性の福祉に反するとかなんとか。表現の自由自体は規制しないが、公共の空間では「見たくない人の自由」への配慮がないものは批判されてしかるべき、と。
しかし、「見たくない人への不快感の配慮」については、法的にはもう解決済みの話である。最高裁の判例についてはこのツイートが参考になった。
簡単にいえば、「私が不快だからやめろという要請は、受忍の範囲を超えたプライバシーの侵害であるということはできず却下」ということ。
それを法学者が指摘すると「法の話ではない」と逃げる。法の話じゃないなら、「私は不快だ」というのは自由だが、「私が不快だからこの表現は排除しろ」とまでは言えないはずである。
一方で、この議論にはもうひとつの問題点が潜んでいると思っていて、それこそがずっと言い続けている「ポリコレ全体主義」である。
表現の自由を規制するつもりはないといいながら、実質「この表現は(私が不快だから)批判されて当然だし、非を認めて謝れ。世の中からなくなれ」と詰めている(少なくとも僕にはそう見える)。不快の表明にとどまらず、「私の不快の排除」なのである。
つい最近も既視感のある事件があった。恵比寿駅の一件である。
一時撤去し、それに対して批判されたからまた元に戻すという情けない展開になっている。
広告だろうが、デザインだろうが、誰かが不快になる表現はあるだろう。しかし、誰かが不快になったからといって、それを片っ端から排除していくことが当然の権利と許される社会は、どんなディストピアなんだろう。
次から次へと、あれもこれも排除したいと指摘しまくっている人間が、逆に「そのあなたの行動が不快です」と言われたらどうするつもりなのか。
きっとこういうのだろう。
「私を不快というお前が間違っている。間違っている者は正しい道へ導かねばならない」と。どこの新興宗教の洗脳ですか?そして、いつまでも間違いをたださない者は「ポアしろ」ですか?冗談抜きでそれと同じ理屈としか思えない。恐怖すら覚える。
まさかそんな人はいないと思うが、たとえば大学の授業で「先生の言っていることは僕は違うと思います」という学生がいたとして、それに対して「そんなことを言う学生には単位はやらん」という教授がいたらそれは完全なアカハラである。教育とは自分の思想を押し付けることではない。
そもそも、誰かにとって不快なものでも、それが誰かにとって救いになる場合がある。誰かにとって嫌いなものでも、それを生業にしている人もいる。人間だれしも嫌いな人間はいる。その人間が別に法を犯してなくても、被害届を出すような危害を加えていなくても、どうも傍にいるだけで気分が悪いと思う人がいるかもしれない。その不快感は別に否定しない。だって、しょうがないことだから。でも、それはそれまでの話。
しかし、どうにもそれでは我慢ならなくて、「私が不快に思うのは、私のせいじゃなく、相手に問題があるからだ。この問題は私だけではなく、回りの人間にも害を及ぼす危険性がある。だったら、公共性の福祉としてこの人間がこことにいるのは許されるべきではない」などと拡大誇張した考えに至るなら、それこそヤバいとしか言いようがない。
あなたが嫌いでも、その人はその人の子どもにとってはかげがえのない親かもしれないし、その人を愛する者にとっても大事な人かもしれない。あなたの感情はあなただけのものであり、それはそれで尊重する。しかし、それは世界人類共通の感情ではないし、普遍的な正しさでもない。
この問題が浮き彫りにするのは、こういう「ポリコレ全体主義」ともいうべき思考や行動の表れなんです。こうした「ポリコレ全体主義」にどっぷりとつかり、多様性とは相反するそうした行動をとっていながら気づかない人っている。
自分の正しさを信じることは否定しないが、自分の正しさを他人に押し付ける「正しさの暴力」はやめろ。ロシアのプーチンと何が違うんだ?
この件について、佐々木俊尚さんが以下のようにアベマTVで語っている。
“not for me”という言葉がある。不快なものがネットでは可視化されてしまうが、でもこれは私のものではないとして距離を置く。そういうエチケットのようなものが今の社会には必要なのではないかということだ。それ無視して人が好きなもの、一人で楽しんでいるものを足蹴にするからみんなが怒る、ということについてもうちょっと考えて欲しい
その通りだと思う。
誰かの欠点ばかり探して減点方式で人を見る人いるけど、そういう人生は楽しいのかねえ。減点方式はすべての人がいずれ0点になる。すべての人が嫌いになる。
自分が不快になることばかりを探し出して怒りまくるより、自分の好きなことにのめりこんで笑っている人の方が数倍素敵だ。