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「外食」がもたらしていた無意識の経験

緊急事態宣言が発令され、「会食」が感染源となっていることが指摘されています。そのあおりをうけ、飲食店は様々な制約を課され、また人々の足も飲食店から遠のいています。ぼくも、そのようにして足を運ばなくなってしまった一人です。

しかし、ふと、家で子どもの食事の様子を見ていて気付いたことから、飲食店を応援しなければならないという気持ちが芽生えました。今日はそのエピソードを書こうと思います。

食器具で変わる子どもの気分

ある日、こんなことをツイートしました。

納豆を、ご飯のうえに乗せて食べるか、パックから直接食べるか、些細な違いについてのツイートです。

そのツイートを、🐢かめ🐢さんが引用リツイートしてこのようなことを書いてくださいました。

外食先で、普段と違う食器具が登場し、普段と違う身振りで食べることを経験し、それがとても当時のお子さんにとって印象的だったのでしょう。

このツイートを読んで、ぼくはコロナ禍でいかなる経験が奪われてしまったのかを痛感しました。それは、外食の経験です。

これまでの外食で意識されていたこと

これまで、「外食」というと、外で美味しいものを食べること、つまり食品や料理にしか意識が向いていませんでした。たとえば「この店のサラダが美味しい」といったように、皿の上に乗った料理のことしか考えていませんでした。

他に感じていたことがあるとすれば「外食は作ってもらえて、持ってきてもらえて楽だな〜。片付けもしてもらえるし」といった「コスパ」に関することです。ともすれば「このパスタのレシピ、家で再現すればより安く食べらるな」などと浅ましいことも考えがちでした。

つまり、「何を食べるか」や「いかに楽して食べるか」しか頭になかったのです。そして、「あわよくば安く食べたい」という心もありました。恥ずかしながら。

外食で無意識に経験されていたこと

しかし、外食先では、当然ですが内装が家とは異なります。器も違います。スプーンやフォークなどもこだわって選ばれているものが多いでしょう。

外食において、ぼくたちは家では食べられない美味しい料理を食べるだけでなく、日常とは異なる文脈のなかで、異なる動作で、異なる知覚を、無意識下で経験しているのです。

「子どもが外食先だとよく食べる」という話はよく聞きますが、それは味が美味しいだけでなく、こうした内装や道具の違いによって、文脈や動作、知覚が異なることで新しい気分が生まれるからなのでしょう。

飲食店のみなさんは、ぼくたちに美味しい料理を提供してくれるだけではありませんでした。食べる場所や、その料理の歴史的な文脈、その文脈に則った食べ方などを含めた「経験」を与えてくれていたのだということに、改めて気づかされました。

ささやかな飲食店支援

今、我が家には小さな子どもが二人いるので、そもそも気軽に飲食店にいける状況ではないのですが、現在のCOVID-19の感染拡大が止まらない状況下において、どうしてもためらわれてしまいます。

しかし、冒頭の納豆にまつわる一連のツイートから、いままで様々な経験を与えてくれていた飲食店を応援しなくてはならないという強い気持ちが生まれました。

まず、妻と子どもたちと、近所の発酵料理店に足を運んで、店頭で販売している調味料や麹を買いました。

そのときに妻が「応援しています」「また買いにきます」と声をかけていました。いつも元気な店長さんが、心なしか落ち込んでいるように見えたからだそうです。店長さんは心を奮い立たせるような目をして「ありがとうございます!」と返してくれました。

それ以降、なるべくこうした個人商店のテイクアウトや調味料などを買うようにしています。応援しています!というメッセージが伝わるように、「ありがとうございます」と伝えるようにしています。家庭料理の味も気分もかわって嬉しいですし、可能な限り飲食店を応援したいと思っています。


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