江戸時代のアイドルオタクの恋の行方
戸時代というとすぐ「暴れん坊将軍」とか「遠山の金さん」とか「桃太郎侍」などを思い浮かべる人が多いと思います。しようがないですね。時代劇といえば、大体「お侍さん」のお話です。しかし、江戸の日本人=サムライではありません。全人口のうち武家人口というのはほんの1割にも満たなかったのですから。
日本人のほとんどは農民でした。また、士農工商といわれるので、農民・工民・商民がそれぞれいたように勘違いされている方も多いですが、「農工商」は一体型であり、ほとんどの人が農民でありながら商いもやる兼業農民でした。
そして、皆さんが意外に知らないのが、「江戸時代の町人」のこと。
前回のコラムで説明した通り、江戸時代の江戸には独身男があふれていました。結婚したくても相手がいないのですから仕方ありません。そんな男余りの江戸だからこそ、花開いた文化がたくさんあります。
たとえば、現代のソロ男たちが熱狂するアイドル市場は今や1550億円市場に拡大しており(2015年実績)、チューイングガム市場の1100億円を超えています。
しかし、江戸時代にもアイドルは存在したのです。
© 鈴木春信 「笠森お仙」MET
明和年間の1760年代、谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘笠森お仙(おせん)が、アイドルの元祖といっていいのではないでしょうか。茶屋の娘なので、要はカフェのウエイトレスなんですが、美人だと評判になり、美人画で有名な鈴木春信が彼女を描いたことで江戸中に拡散、大人気となったのです。
あまりの人気に、鍵屋も手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売されました。そして、これがまた売れに売れたというんですから、まさに現代のアイドル商法と同じです。
ちなみに、鈴木春信の描く美人画というのは、抱きしめれば折れそうな手足と幼さの残る顔立ちを特徴としていて、後世の鳥居清長が描いた「9頭身パリコレモデル体型」や、喜多川歌麿の描いた「8頭身グラマラス美女」とは違います。現代で言えば、さしづめ、お仙は乃木坂46や欅坂46的なイメージと言えます。
© 鈴木春信 「笠森お仙」MET
当時、お仙と並んで、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘お藤(おふじ)と人気を二分した言われています。この二人に、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘およしを加えて明和三美人と言われていました。
ちなみに、お仙は、人気絶頂期に突然姿を消しました。そのため、ストーカーによる誘拐拉致説も流れ、騒然となりました。『嫉妬に狂った茶屋のオッサンから逃亡したのだが、そのオッサンに見つかり、喉を噛みちぎられて死んだ』という凄まじい俗説までささやかれたそうです。こういう噂が立つということは、当時から、アイドルのストーカーがいたという証拠です。
が、お仙失踪の真実は、結婚です。幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁いだとのこと。今でいえば、金持ちエリート実業家と結婚して引退したというところでしょうか。オタクたちの純粋な恋が悲しい結末を迎えるのは江戸時代も今も変わらないようです。
明和の三美人から遅れること約30年、1790年代の寛政年間には、浅草難波屋のおきた(16歳)と両国高島屋のおひさ(17歳)というニューアイドルが誕生し、喜多川歌麿の美人画のモデルとなりました。歴史学者の磯田道史氏曰く、アイドルランキング表も発表されていたという。まさにAKB総選挙。こうしたアイドル旋風は江戸時代からあったわけです。
今から200年以上も前のことですが、何も変わってない!
いってしまえば、春画なんてものも今で言うアダルトAVです。黄表紙は今で言うマンガですね。独身の男にあふれていた江戸だからこそ、こうした独身男向けの産業が生まれ、それが長年支持されてきたことで、今に続く文化として残っているのです。
まだまだ、現代のソロ社会と類似する現象はこれだけではありません。いずれ機会を改めて。