女性科学者の「リケジョ」報道から考えるジェンダー問題
スウェーデン王立科学アカデミーは7日、2020年のノーベル化学賞を、生命の設計図である遺伝子を効率的に改変する新技術「ゲノム編集」を開発した米仏の2氏(米カリフォルニア大学バークレー校のジェニファー・ダウドナ教授と、仏出身で独マックスプランク感染生物学研究所のエマニュエル・シャルパンティエ所長)に授与すると発表した。
このニュースに対して、日本のメディアからは「リケジョがノーベル賞受賞」「女の子もシンデレラより科学にときめく時代はやって来るのか」などと、非常にジェンダー問題や性別による格差の歴史への考慮にかけたタイトルの記事がいくつか見られた。
女性や有色人種、LGBTQの理系教育に携わっている者から議論させていただきます。
(1)科学の世界と女性の活躍の難しさについて
このようなタイトルの記事最もダメな部分は、「科学者になる女性が少ないのは、本人の意志の問題」という風な潜在バイアスを肯定するから。非常にジェンダー問題を軽視するトーンです。
特に日本においては、「管理職などに社会進出する女性が少ないのは、女性の実力不足・意欲不足」という風にフレーミングされる風潮が未だに非常に根強く残っています。「科学者を目指す女性が少ない」というのは、本人の意思とは全く別に、社会の構造やジェンダーバイアス、セクシズムが強く影響します 。
そして、「〜の時代がやってくるのか」という表現。まるで女性がそのうち興味を持つか持たないかの問題次第かのようなトーンですが、「今すぐにでも改善されなければいけない問題が改善されないから女性が進出できない」というのが現状です。他人事のように報じることはあまりに無責任です。
さらに、「リケジョ」という表現が女性の理系関係者の間で問題視されていることもここで言及されるべきです。なぜ「女性二人チーム」ではいけないのでしょうか。「リケジョ」という言葉の成り立ちと使われ方の変遷を少しでも知っていれば、ノーベル賞受賞者に使う言葉ではないということはわかるはずです。
なぜ「”リケジョ”コンビ」という軽い表現でなければいけないのでしょうか。話題性を高めるために女性の実績をコメディ風に描く必要性とは?
そもそも、女性二人がノーベル化学賞を受賞するという、科学の世界でも世界中の女性やマイノリティにとっても祝福されるような快挙であるからこそ、<なぜ>現在進行形で女性は科学の世界で活躍しにくいのか、<なぜ>女性科学者は歴史的に過小評価をされてきたのか、その歴史と抑圧的な社会問題に触れずにその功績を語ることはできません。
(2)「プリンセスより科学者に憧れるべき」という偏見
プリンセスとSTEMの関係性、全く謎です。プリンセスに憧れながらSTEMも憧れたっていいじゃないですか。それが2020年のフェミニズムですよ。
例えばこの研究者は、「科学者がプリンセスになったっていい」「プリンセスが好きで科学が好きだっていい」というメッセージでバズりました。
「女の子らしいものに興味があって、科学者になってもいい。科学の世界のロールモデルから、歴史的に女性は排除されてきました。」
なので、「シンデレラより科学」というタイトル自体に憤りを感じます。「シンデレラに憧れる女の子は社会進出の意欲が低い」というスティグマをまた植え付けるからです。
プリンセスの話で言えば、ディズニーをはじめとした子供向けコンテンツはフェミニズムやエンパワメントの意識も高まっています。
フェミニンなものが好き、というものにスティグマを植え付けるのは時代遅れです。むしろ男子がシンデレラに憧れたっていいじゃないか、という方が現代的な価値観と言えます。
(3)「女性はSTEMを避ける傾向がある」という記述
問題の中心核が「女性本人」である記述になりがちな現状に疑問を提したい。男子校の部活のように排他的な理系界、「女性は理系に向いていないから」という日本の理系教育、社会の目、メディアの報じ方、それをまずは批判するべきです。
この「文化」や「慣習」に疑問を投げかけるような記述を書かずに、女性の理系進出に関する記事は書いていては、本質的な議論がなされないままです。
「避ける傾向」は一体誰が作っているのか?女性にとって働きにくい環境を作り上げる「過酷な慣習」がなぜデフォルトなのか?
男性にとっても過酷な慣習なのであれば変えるべきというのも一つのムーブメントです。理系教育やさらに言えば理系業界全体の未来を担いかねないメディアの論調に関しては、もっと書き手の責任感が必要です。
(4)「女性の自己責任だ」論
実際に「マイノリティ当事者」が求めているのは、「マイノリティが存在しなくてはいけない世界」をなくすことです。有色人種や女性、LGBTQが理系の世界に進出することを目指すこと自体のハードルが高い現状から、そういう人たちが当たり前のように存在している世界に変わらなければ、永遠に 「マイノリティ」というレッテルを貼られたまま、生き続けなければならないのです。現在アファーマティブアクションで補っている状態ですが、より「社会の多様性を反映した環境」にならない限り、パワハラやセクハラ、いじめ、不平等な待遇は続きます。
こういう話も、日本ではまだ違和感を持つ方が少ないと思いますが、単独で伝えるならまだしも、「女性の理系進出問題」を扱う際には「社会構造とジェンダー問題」を同時に扱わなければ、不適切です。
スポ根と同じ口調で「自分で限界を引いてしまってはおしまいだ」と言い、まるで女性が自ら遠慮をしてしまっているせいで社会進出が阻まれていると「自己責任論」を提示するのは、一世代前のフェミニズムの価値観です。
レイシズムも一緒です。「自分は人種マイノリティだったけど人種差別に負けなかった!」と主張する人がいたとしても、そうですか、あなたはそうかもしれませんが、誰もがそのように強く立ち向かって生きられるわけではありません、としか言えません。そうじゃなくても普通に生きられる社会にしましょう、というのが現代のエンパワメントのあり方です。
(5)「マイノリティ」のストーリーを語ることについて
このような「マイノリティ」の活躍を語る記事を「マジョリティ側の男性」、そして理系以外の分野の人として書くことについての社会的意味を問い直すべきだと思います。
理系のジェンダー問題は、非常にセンシティブな社会的要因が何層ものレイヤーで関わるため、専門性が必要な話題です。専門家や活動家の努力を蔑ろにしないでいただきたいです。
そして、フェミニズムや女性のエンパワメントという言葉を一度も使わないで「女性の理系進出」についての記事を書いたのも逆にすごいと思いますが、わざわざ「プリンセス」を引き合いに出すのであれば、最近のプリンセス・フェミニズム論についてする必要があります。
「ディズニーのヒロインのすべてが「悩める乙女」というわけではなく、最近では「勇気」「粘り強さ」「知性」などの人格的特徴を体現しています。
モアナやアナのような強いヒロインに娘たちが憧れるのも不思議ではありません。彼女たちは素晴らしいです。」
大前提として、プリンセスになりたい女性、主婦になりたい女性、そういう人がいたっていいんです。
「誰もが自由に選択できる社会」を作ることが我々の目指すことであり、「目指したい人が目指せない現状を変えたい」というのが目標なのです。
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