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NFTはアートを拡張するか?消費するか? 〜fungibleを巡るNFTの可能性と危険性

お疲れさまです。若宮です。

にわかにNFTが盛り上がっています。


ジャックドーシーのTweetが3億円で売れたり、

アートマーケットのクリスティーズでBeapleのNFT作品が約6935万ドル(75億円)で落札されたりと

急速に盛り上がりをみせ、すでに若干のバブルの様相も呈しています。


NFTはアートに新しい流通の可能性を開く?

僕はNFT自体にはポジティブな可能性を感じています。アートに新しい商流や金流の選択肢を開く可能性があるからです。


先日、日本第一号のVRアートのNFT落札で話題となったせきぐちあいみさんもこんなツイートをされていらっしゃいましたが、

現代アートやメディアアートは、メディウムの新しい表現可能性を目指すため、必ずしも「絵画」や「彫刻」のようなtangibleで持ち運び可能な作品にはとどまりません

著書『アート思考ドリル』でもこの辺のことを少し扱っていますが、電子的に記録された情報やプログラムはモノ性を持たず、再生(run, play)されることで体験できるコンテンツですが、物理的に確定された実体をもたないephemeralな性質のために、「売り買い」したり、持ち帰り収蔵する、という従来のアートマーケットでの流通が難しいところがあります。

そしてもう一つ、デジタルアートの場合、複製がものすごく容易である、ということも「売買」に不利な性質になりかねません。複製されることでオリジナル/コピーの区別のほとんどないものが大量に簡単につくられ、結果として価値がさがってしまうのです。


「代替不可能性」という価値

アート思考の文脈でよく話していますが、現代は20世紀型の工業的な産業構造から価値のパラダイムがすでにシフトしています。

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「工場のパラダイム」では規格化された「おなじ」ものを大量につくることが価値であり、そのために製造プロセスが規格化され(部品、マニュアル、制服)、「ちがい」は事故や不良品のもととして避けられました。しかしモノや情報が飽和した時代には、他との「ちがい」=uniquenessこそが価値となり、他と「おなじ」ものは「パクリ」や「モノマネ」として価値の低いものになっています。これを「アートのパラダイム」と呼んでいますが、つまりこの数十年で価値が180°逆転しているのです。


企業で新規事業について講演する時、「いまご自宅ではなんというブランドの箱ティッシュを使っていますか?」と聞くとおよそ1割くらいの方しか答えられません。箱ティッシュは日本では毎日ほぼ全員が使っていますからものすごく多くのニーズがあるものですが、「ちがい」が少なく他と代替可能なものになり、「どれでもいいもの」になってしまっているからです。

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アート思考では自分だけのユニークさ=「代替不可能性」を大事にしますが、NFTつまり「Non-Fungible Token(代替不可能なトークン)」とは、まさにこの「代替不可能」を付加するものなのですね。

複製可能なデジタル作品に対し、ブロックチェーン技術で唯一無二のトークンを付加することで「コピーできない」「代替不可能な」価値を追加するわけです。

NFTによって唯一性の低かったデジタルアートやメディアアートにも「代替不可能な価値」が生まれ、希少性が生まれます。


また、NFTが開く可能性はなにもデジタルアートに限ったものではありません。これまで「所有」が難しかったストリートアートやパブリックアートにも「所有者のオリジナルな刻印」を埋め込むことで、virtual(仮想的/実質的)な所有が可能となります。またこうした所有はvirtualな所有であるが故に、ひとりの所有に限定されることもありません。同じ作品に複数のNFTを付与し、「共有」することも可能になるでしょう。こうした「virtualな所有」によって、これまで売買が難しかった作品が新しい商流や金流に乗り、オーナーが(これまでは勝手に複製される恐れがあったためにしづらかった)デジタル空間での展示をしたり、ヴァーチャル空間での新しい鑑賞体験が生まれる可能性もあります。


NFTで価値が下がる?

一方で、NFTには気をつけなければならない危険性もあります。それはNFTによりアート作品がスピーディに流通することで、かえって「fungible(代替可能)」になり、価値がさがってしまわないか、ということです。

NFTはデジタルアートを「民主化」しますが、供給サイドと需要サイドの両面で価値が低下する懸念があるのです。


供給サイドからすると、NFTは比較的簡単に付与できますし、もともとコピー可能なデジタルデータをNFT化することができるので、供給量が一気に増加し、玉石混交な状態になるおそれがあります。ジャック・ドーシーのツイートのように、作品以外のものでも希少であればなんであれ流通することができます。ゲーム内アイテムやバーチャル空間の土地やレアな動画など、なんでもNFT商品になるのです。

また、同じ作品でもほんの少しだけマイナーチェンジしほとんどコストレスで作品を増やすこともできます。昨今、「プロセスエコノミー」という言葉も盛り上がっていますが、これと組み合わせれば制作段階でいくつものNFT作品を生み出し、販売することも可能です。旧来の絵画作品などでは、加筆・修正を経てfinalizeしたfix ver.のみが流通しますが、NFTでは途中段階でいくつものversionの派生が可能なのです。

こうした供給過剰により、作品が埋もれたり、アート作品の価値が相対的に下落してしまう恐れがあります。


他方、需要サイドでは「投機」の問題があります。現在のバブル的様相もそうですが、NFTによってアートが高額で取引されるようになると「投機」的な意図をもった人が参入してきます。

ライブチケットなどでも「転売ヤー」や買い占めが問題になっていますが、転売によって利ざやを稼ごうという意図の人たちが入ってくると、短期的には値が釣り上がります。値段が上がるのであればアーティストにとってもウェルカムなようにも思えますが、果たしてどうでしょうか?

こうした人達はその作品を楽しむことではなく「転売」こそが目的であるので、作品自体の質をあまり吟味しません。

こちらの記事で「上がるものなら何でも」と言われているように、

金融商品と同じで、左から買って右に売る、その価格の差分にしか興味がなく、その中身は「何でもいい」のです。とても皮肉なことに、「代替不可能」のための技術であるNFTが、アートをかえって「代替可能」な「どれでもいい商材」に堕してしまうという逆説が起こります。


鍵は「ファン」

本来、あるものの価値は人によってちがいます。ジャック・ドーシーのツイートがものすごい値段になったのはそれを所有したい人にとっては歴史的な価値が感じられるからですし、ちょうど「ギザ10」の硬貨が10円以上の価値をもつように、モノの価値は愛好家の「愛着」によって増加します。

愛好家やコレクターの場合、価格は「愛着的付加価値への対価」ですから、その眼差しは作品自体、また体験自体に向かいます。しかし投機的な所有者や「転売ヤー」には作品に対する愛着やリスペクトがありません。

こうした「何でも」への価値の低下を避けるためには、NFTによるオークションでも入札者を限定し、クオリティ・コントロールする必要があるかもしれません。身元確認や取引履歴をしっかり管理・審査し、明らかに投機的な目的の「転売ヤー」の入札を制限するのです。最高値をつけたかどうかだけではなく、「誰に所有してもらうか」をアーティストが選ぶ権利があってもよいのではないでしょうか。

そうして「愛着」を起点にしてアーティストとファンがつながることができ、そこに新しい所有や商流のかたちができれば、これはとても素晴らしいことです。それは売買マーケットというよりも、新しいパトロナージュのあり方として、アートや文化を育てる培養土culture soilとなるでしょう。


NFTに新しい可能性があるからこそ、却ってそれがアートを「代替可能」にして価値を下落させたり、投機的に消費したり、一過性のバブルによってその可能性を潰してしまわないようにしたいものです。NFTによってファンの尊敬と愛着でつながる新しいトークンエコノミー(もしくはコミュニティ)が生まれるためには、作品に真摯に向かうアートファンのリテラシーとマナーが求められるのではないでしょうか。

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