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スポーツの光と影は「いつもの話」?ーカタールW杯で思うこと。

カタールでのサッカーW杯がはじまりました。ただ、どうもミラノのぼくの周囲で「お祭りだ!」といういつもの雰囲気に欠けます。気のせいでしょうか?

「今回イタリアが予選落ちしたからかな?」と思っていたら、それだけではなく、ずいぶんと前からイベントの暗部が続々と報道されていて「なるほど」と思いました。日経新聞も開幕数日ほど前から、以下のような記事を掲載しています。

W杯は国際的知名度を高める好機であり、成功は国家的な目標だ。だが、4年に1度の祭典は、光と影の両面に世界の視線が集まっている

さて、9月から小さなオンライン勉強会を主宰しています。サステナビリティや人権へのリスペクトが地域によって不十分な現状を鑑み、こうした問題に対する文化的な受容や差異に焦点をあてています。

ぼく自身、著書『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』でサステナビリティや人権への姿勢が新しいラグジュアリーの大切な要素であると書いています。よって、その先についてもっと語っていくのが適当と感じています(基本、人権尊重なきサスティナビリティは成立しないので、人権とサステナビリティを併記するに躊躇がないわけではないですが)。

それでサステナビリティや人権に強い弁護士の方に声をかけ、その分野の専門家とクリエティブ領域に近い人と一緒に議論できる場をつくり、特に国際的な場で通じるロジックや勘のありかを探っていこうとしています。多様なアングルから話せるようにしておく、ということですね。専門家が専門の言葉で話して「世の人々には通じない」と嘆いているタイミングでは既にないと思ったのです。

今からおよそ1カ月前の10月末、スポーツと人権をテーマとした勉強会を行いました。話題提供者はロンドンを拠点にスポーツビジネスコンサルタントをしている林鉄朗さんです。

彼はまさしくカタールW杯と人権の話をしてくれました。ここでは彼の話の一部を抜粋して紹介しながら、ぼくのコメントを加えていきます。

「商業主義のスポーツ」と「スポーツ文化を基盤としたスポーツ」

林さんは日本サッカー協会での勤務を経て、今、ロンドンで前述のようにスポーツビジネスに関わっています。「社会のアップデートにスポーツが貢献する」狙いが彼にはあり、英国のセントラルセントマーティンズの修士課程でソーシャルイノベーションを学びました。スポーツがもつ「拡散機能」と「結びつける機能」の2つの性格に注目しながら研究と実践をしていきたい、とのことです。

また、ブラインドサッカーという視覚障がいの人もプレーできる競技にも関与しており、「人権と大きく捉えて語れる立場ではないが、スポーツをきっかけに人の尊厳に触れているとの実感はある」と語ります。スポーツビジネスというと、米国発の「商業主義」を連想しやすいですが、林さんは欧州社会にある「スポーツ文化」に目が向いています。

スポーツ動向の代表としてオリンピックの変遷をビジネス・マーケティングの観点からみると、いくつかのフェーズに分かれます。近代オリンピックの始まりである1896年の第1回アテネ大会を起点とした、アマチュアリズムをベースにした大会は競技性が重視視されていました(第1フェーズ)。

第2フェーズの始まりは商業五輪の原点とされる1984年ロサンゼルス大会。徹底したコスト管理とテレビ放映権や1業種1社のスポンサー契約による協賛収入などで黒字転換します。ビジネスとしてのオリンピックの誕生です。

その次の第3フェーズが課題解決の手法としてのスポーツです。五輪というシステムを、開催都市や協賛企業の抱える課題解決に活用するという考えです。2012年のロンドン大会を例にあげれば、東ロンドンの開発や市の財政改善・多人種のインクルージョンに貢献したと評価されました(東京2020オリンピック競技大会は、課題解決の推進役として開催都市、スポンサー企業ともに活用しきれなかったとの指摘があるようです)。

そして、今、社会やスポーツを取り巻く環境が急速に変化する中で、この先のフェーズとしてどのような方向が相応しいのか?が議論されている最中です。そのなかで「サステナビリティ」や「人権」がキーワードになりそうだ、というのが林さんの見立てです。

言うまでもなく、それぞれのフェーズの区切りは明確ではなく、それぞれのフェーズに他フェーズの要素も入り重なり合っています。ですからフェーズが進むごとにスポーツを介した選択肢が広がってきている、と理解する方が良いです。

カタールW杯の人権や環境への軽視が問題視

冒頭の記事で紹介したように、カタールのスタジアム建設現場で少なくても6500人以上の労働者が事故や過労で亡くなったと報道されたり、あるいはすべてのスタジアムにエアコンが完備されたことによる環境への影響、こうした「人権」や「サステナビリティ」に真逆の方向が問題視されています。

そこで抗議運動が発生しています。具体的には欧州のいくつかの都市では観衆を集めて巨大なモニターで試合をみるパブリックビューを取りやめたり、バーやカフェでテレビを見ながら応援するセッティングをしないとの動きです。あえて盛り上げる努力をしない。ぼくがミラノで感じたのも、その空気だったのです。

今年はじめの北京冬季五輪においてはウィグル自治区の人権問題への抗議として、欧州を皮切りに政府高官を派遣しないとの外交ボイコットがありました。

スポーツのもつ中立性という性格が吉と出る場合、凶と出る場合、両方があります。今回、人権とサステナビリティはEUが重視しているテーマなので、カタールW杯に対して欧州人の反応は早かったわけです。

欧州サッカー連盟(UEFA)がスポーツの先進モデルとして参照される

イタリアのトリノを拠点にする名門サッカークラブ・ユベントスは2013年から毎年、サステナビリティレポートを出しています。サスティナビリティにどれだけの活動をしているかの報告ですが、この例をみるように、スポーツ界が社会のなかに組み込まれたカタチでいかに貢献しているかを示す必要がでてきているのです。

また欧州サッカー連盟(UEFA)はスポーツの先進モデルとしてよく参照される団体ですが、2021年12月、人権と環境に焦点をあてたサスティナビリティ戦略を発表しています。

2030年を目標にコレクティブ・アクションを促進するにあたり、ECAという欧州サッカーのクラブチームの団体と協力していくだろうと見られています。

ラグビーW杯はスタジアム新設を禁じる方向に舵をきった

サスティナビリティへの意図を更にはっきり示しているのが、ラグビーW杯を主催する国際統括団体ワールドラグビー(WR)です。

恒久施設の建設を認めるのは、W杯が直接の目的でないと根拠を示せる場合だけ。既存施設の改修も温暖化ガス削減の条件を満たした場合しか許可しない。

東京五輪で国立競技場が、カタールW杯では7つスタジアムが新設されましたが、今年1月、ダブリンに本拠をおくワールドラグビーはこのようなイベント=施設新設との構図を断ち切る方針を決めたのです。加えて、選手や放送スタッフの移動も削減すべしとなっています。

来年、フランスで開催されるラグビーW杯は循環経済を促進するモデルをつくることを目標にあげています。つまり課題解決というよりも、新しいビジョンの提示を先んじて行う姿勢に重点をおいています。しかし、課題解決と新ビジョン提示の違いが明確に分かれるということでなく、先のフェーズのところで説明したように、後者にウエイトをおいた選択肢を示していると言えます。

林さんによると、陸上競技の国際競技連盟であるワールドアスレティックス ワールドセーリングなど他競技・組織でもこのようなサスティナビリティ戦略を策定・実施へ積極的に取り組んでいるようです。

(これ以降は、ぼく自身のコメントが中心です。)

方向転換のための決定は素早いタイミングで行われている

前掲のラグビーの記事に以下のようなコメントが掲載されています。

2019年のラグビーW杯日本大会でもWRが競技場のVIPスペースの改善や選手用ホテルの改修を指示、開催費や温暖化ガスが増えた。同大会組織委員会の幹部だった鶴田友晴氏は「当時は『W杯の基準を満たす施設にしろ』という要求ばかりだった。大きな変化だ」と驚く。

この日本の組織委員会の幹部の証言にあるように、2019年時点では、ワールドラグビーの方針は「昔ながら」であったと想像がつきます。極めてスピーディに舵がきられたわけです。UEFAのサスティナビリティ戦略の発表は昨年末です。

即ち、スポーツの新しい役割を示さないと若い世代のファンも協力者もついてこないのではないか?との切迫した感じを印象として受けます。特に、スポンサー企業の意向はシビアであると思われます。グリーンウォッシュと何と言われようが、何もしない方が罪だ、との認識があるのでしょう。

一方、林さん曰く、「自分の知る範囲では、日本のスポーツ競技団体でこのような明確な方針を示しているところはない」。どうも意識もさることながら、時差をカバーできていないようです。

欧州が目指すモデルは欧州以外の地域に寄与するのか?

大きな国際イベントをひっぱってきてインフラ投資で経済的恩恵を狙う。これが古臭い発想であるとは、それが主流かどうかは別として、どこの国でもある程度の共通認識ができていると思います。

それでもサスティナビリティへの舵切りには、地域差が出ている。最近、エジプトで開催されたCOP27でも議論されたように、途上国は「先進国が地球を汚してきたのだから先進国が犠牲を払うべき」と注文します。そこに先進国、ことに欧州各国はあの手この手で合意ポイントを探し出そうと試みます。

損失と被害はCOP27で初めて正式の議題になった。途上国側が基金の創設を求めていた。当初、米国や英国などの先進国が難色を示したが、欧州連合(EU)が妥協案を出していた

こうした考え方の違いが、カタールW杯に対する各国反応差にも出ているのではないかと思います。欧州の人々のカタールW杯に対する厳しい反応は、欧州の人々が積極的につくろうとするモデルと折り合わないとの意思表明であろうと推察します。

ただ、その先進モデルへの希求は、結局は「ブロック経済化」の推進になってしまうのではないか?との疑問を暗に挟んでいるのが次の記事です。UEFAが導入したNLというリーグが、欧州以外の地域のチームと試合を組むのを実質的に不可能にしています。

UEFAの戦略は、いわばブロック経済のサッカー版シーズンを通して「欧州対欧州」の公式戦で埋め尽くし、収益も強化の果実も手元にとどめ置く。厄介なことに北中米カリブ海連盟も19年からNLを始めた。

EUはルールメイキングで世界のスタンダードを作るとの方策をとっています。まずEU内で活動するためのルールを作り、それがひいては非EUも従わざるを得なくなるコンテクストをデザインしていくわけです。

「うちはEU市場の会社とは商売してないから関係ない」と思っていると、いつの間に外堀を埋められていたという仕掛けになっています。EU以外の市場で自社の製品がEU基準の製品との整合性を求められるシーンが頻出する一方、EUのルールが途上国のルールにコピペされていくからです。

この方向と欧州のサッカー関係者の考えていることが、どこまで一致していて、どこから違うのか?が気になります。

サッカーという共通言語がいろいろな障壁を超えた世界をつくるに有効である、との人々の認知や期待を裏切ってしまうと、あらゆる「良きこと」が嘘にみえてしまうからです。

同時に、あらゆることが商業主義第一にならないための防波堤となる「スポーツ文化」とのあり方も問われるでしょう。ある純粋モデルを保持・発展させるのは人の歴史における必要事項なのです。それぞれのステークホルダーがスポーツの関わり方の選択肢を増やしていくことができる。それが「スポーツの文化がある」と形容できる根拠になります。その一つの事例が、UEFAが2015年からやっている以下です。

UEFA GROW SROI (social return on investment) model は、サッカーというスポーツへ投資することで社会にどれだけ良いリターンがあるかを可視化することに挑戦しています。

この一見危うそうな、しかしチャレンジングな道を歩いていくことに欧州のサッカー関係者たちが覚悟を決めているのであれば、それは応援したいです。なにせ、新しいコンセプトをつくる現場にいたいと思い、ぼくは欧州に活動の拠点を定めたのですから。

最後に。下記の記事も、FIFA(国際サッカー連盟)の決定と欧州サッカー連盟の考え方にある差をみるに適当な例だと思います。

FIFAのインファンティノ会長は19日の記者会見で欧州各国からの批判に反論し、FIFAは意見の一致に焦点を当てる必要があると主張した。「(国によって)『白』と考える協会があれば『黒』と考える協会もある。どちらの考えがベターか。どちらの大義がベターか。我々は一方を支持することはできない。国際的、グローバルな大義を守らねばならない。さもなければ違う考えを持つ人々を排除することになる


尚、人権というと顔に青筋入れながら話す何やら難しいこと、と思われる方も少なくないです。アムネスティ日本が谷川俊太郎さんが意訳した世界人権宣言の30条を下記に掲載しています。上記の勉強会に参加されていた星暁雄さんがツイッターで紹介されていたので、ここにリンクを貼っておきます。星さんはITと人権の関係を深く追っているジャーナリストです。人権は、こういうソフトな言葉が似合うと思っていたので、これだ!と膝を打ちました。

冒頭の写真©Ken Anzai


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