「不惑の40歳」は誤訳だった ―孔子が説いたのは「しなやかな中年」の生き方
人気作家、金原ひとみさんインタビューが2024年10月29日の日経新聞に:
「中年はどう生きるか 確立した個の解体を」
"2004年に20歳で芥川賞を受賞し大きな話題となった作家も不惑を過ぎて、今作では「中年はどう生きるか」に向き合った" とある。
「不惑」、とは孔子の2500年前くらいの言葉。
不惑を過ぎて、とは、迷わない確固とした自分を確立した(はず)、という使われ方をしている。
いいえ、違います。
孔子の真実:「四十にして或わず=区切らず」
2021年4月5日のNIKKEI STYLE記事、「能楽師・安田登さん 自分の可能性広げる三流のススメ」では、原典では逆であったことが解説されている:
孔子が生きた当時、「惑」という漢字は存在せず、「或」が正しかったようだ。
或=地域、など、区切る、という意味。つまり、「40になって、区切らないようになった、これまでの自意識を排除して、いろんなことをするようになった」と言ったのが、真実の孔先生(子=先生の意味なので、これも逆方向だ笑)
後世に、手書きで本(というか木の札をヒモで結んだやつ)を移す中で転記ミスが発生し、「惑」=迷う、となってしまった模様。
結果、不惑=確立した自分、という方向に誤解されたぽい。
これは昭和あたりの時代が求めた姿でもあっただろう。大河ドラマとか、40代の石原裕次郎のような大物俳優の演技をみても、なんとなく想像できるのではないだろうか?
しかし令和の今、40歳とは、チャレンジを続けるべき年齢だ。
22歳から働いて18年後が40歳だ。想像するために、2024年の18年前を考えてみよう。2006年、まだiPhone(2007-)は存在せず、渋谷の街にはガングロ女子高生がウェイウェイ(←当時そうはいわない)してた頃。
渋谷の街から消えたのは、最先端の女子高生がネットに移動したから。
ガングロが消えたのは、ネットでは美白のほうが映えるから。
情報環境も、家電業界も、美意識も、激変している。
それくらい変わるわけで、大学出てから18年も経てば、新しいチャレンジは必然。昔と違って、新しいことをまるっと任せられる新人若手は、そもそも数がいないし、自分でできるようにならないといけない。
そんな時代だから、そろそろ昭和な「不惑」を、孔子オリジナルの「不或」に戻したほうがいいと思う。
金原ひとみさんも、インタビューで語るのは、そのオリジナルな在り方だ。
これが本来の姿では。2500年前の孔子が自ら実体験し、そして弟子に説いた「不或」な40歳の姿だ。
「不惑の40」とは、昭和の日本という特殊な時代環境の中で、一時的に変身していた仮の姿であったのだ。
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金原ひとみさんといえば、この ↓ ↓ ↓ 文才
このシンプルさ、新人賞の募集にふさわしい。両隣の男性作家が重厚論理的な解説をするのは、評価の客観性のために必要なことではあるが、それだけでは素人は怖い。中央の革ジャン女性の存在が必要。
同作品について、同じ日時場所でBusinessInsiderもインタビューしてる:
服とかも同じで、写真を比べると、写真家さんの技術やスタイルなどわかっておもしろいです。こちらは今回もトップ画像 ↓ の稲垣純也さん撮影。
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11/5-日経電子版のりましたー